1579年、信長の次男信雄は、信長に相談もせず独断で伊賀国侵攻しましたが、伊賀衆は信雄軍を敗走させました。信雄が無断で伊賀に侵攻し、さらに敗戦したことを知った信長は激怒し、信雄に「親子の縁を切る」と書いた書状をしたためました。

1581年、再び織田信雄を総大将に5万の兵で伊賀国に侵攻しました。伊賀衆は蒲生氏郷隊筒井順慶隊に夜襲を掛け大勝、丹羽長秀らの反撃も押し返しましたが、その後内応者が出た事もあり織田軍に各地で進撃を許しほぼ伊賀国を制圧されました。村や寺院は焼き払われ、住民は殺害されました。僧侶700人余りが斬首、伊賀全体では9万の人口の内非戦闘員含む3万余が殺害されました。残党は徹底的に捕縛され殺されましたが、多くの指揮官は他国へ逃げ、ほとぼりが冷めた頃に帰国しました。

 

戦場
伊賀国全域
(三重県伊賀市名張市)
交戦勢力
織田軍
約50000人
伊賀国人衆
約9000人
主な指揮官(数値は軍事力)
30織田信雄
85滝川一益
85蒲生氏郷
75丹羽長秀
55筒井順慶
滝野吉政65
百地丹波105
森田浄雲80
結果
織田軍勝利。
織田軍損害2000人余。
伊賀衆壊滅、非戦闘員含め3万人余死亡。
規模 重要性
C E