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やっと閉店時間となった。私はぼろぼろだった。それなのに、よりによって私がレジ締め担当。「頼むから何も起きないで」と祈りながらお金を数えた。レジの金額を記録用のシートに記入し、記録を印刷し、慎重に照合する。結果はマイナス一万八百三十二円。目の前が真っ暗になり、身体が地の底へと落下していくようだった。何処かに計算ミスがないか、胸に閊える重さに耐えながら目を凝らした。電卓を打つ指が震え、心許なかった。しかし何度やり直しても計算ミスは発見できなかった。今度は紙幣、硬貨、商品券を数え直す。重なった紙幣を一枚と誤って数えてはいないか、指が痛くなるほど力を入れて調べた。数え間違いはなかった。普段ならよくミスをするのに、こんなときに限って何も間違えていないことが恨めしい。店長に報告しなくては。電話をかけると二コールで出た。

「またか?」

「あの……はい……」

「いくらだ」

「マイナス一万八百三十二円です」

 そこまで言ったとき、引きちぎられるように電話が切られた。怒りや呆れなど通り越した重々しい男の声の残響と、無機質で軽々しい電子音が私を食らった。私は殺されるかもしれない。大袈裟でなくそう思った。



 次の日は休みだった。待ちに待った休日。だが、私の心は光の入り込む隙間もないほど黒く塗り潰されていた。私は朝食をとるとカーテンを閉めた暗い自室に閉じこもり、ベッドの中で震えていた。明日店長に会うのが恐怖でならなかった。

防ごうとすればするほど、これ以上出してはならないと思えば思うほど、誤差は出る。私の「出してはならない」という思いに反応して出ているかのようだ。一体誰が盗んでいるのだろう。最初は盗難など考えたくなかったが、こうまで頻繁に誤差が生じるのであれば、盗難以外に原因を見付ける方が不可能というものだ。あれほど目を凝らしているのに、そんなものお構いなしに盗まれてしまう。もっとも、目を光らせているのは、ミスばかりする使えない新人一人なのだが。

私はあまりに儚い力を振り絞って戦っている。しかし、一体何と戦っているのだ。盗難の犯人だろうか。すぐに怒りをまき散らす店長だろうか。解決などするようには到底思えない。毎日、ただお金の消失に怯えているだけだ。休日でさえ翌日の仕事に怯えている。気が休まらない。だから身体も休まらない。時計の秒針の音がやけに大きく耳を打つ。それほど部屋は静かなのに、私の心は雑念で溢れ返り、やかましい。無数の不安と恐怖が喉を震わせて叫んでいるのだ。

机上の携帯電話が振動した。心臓が体内で上方に引き上げられ、固まる。電話は一定の間隔で振動と静止を繰り返した。着信の知らせだ。誰からだろうと、震えながらベッドから這い出し、画面を見詰めた。「矢吹猛人」。店長だ。腹に重い打撃を食らったような痛みを感じる。強い衝撃が、一瞬の空白の時間の後にじわじわと身体の隅々まで広がる。何度味わったか分からないこの感覚。幾度も幾度も私に刻み付けられたこの感覚。全身が粟立つのを感じながら、急いで電話を取り、耳に当てた。

「もしもし……」

「成瀬、今すぐ店来い。話がある」

 荒れた声がいつもより更に歪んでいた。静かに話してはいるが、彼の声は獲物を威嚇する猛獣の唸りに似ており、今にも暴発しそうなほど荒れ狂う感情を含んでいるのが分かる。

「か、かしこまりました……」

 それ以外何も言えなかった。言い終えた瞬間、荒々しく電話が切られる。無感情な電子音を聞きながら、私は机が接する壁を見詰めていた。安全な家の中から引き摺りだされる恐怖に慄き、歯ががちがちと鳴る。寒い。暖房は効いているはずなのに。急いでスーツに着替え、化粧をすると店のユニフォームを鞄に詰めて部屋を飛び出した。階段を駆け下りたところで、洗濯物のかごを持った母に出くわした。

「あれ? 今日はお休みじゃないの?」

母が驚いて言う。

「ちょっと呼び出されちゃって」

「また? せっかくのお休みなのに。行けないって言ったほうがいいわよ」

「でも、ちょっと緊急みたいで。じゃあ、行ってきます」

「ちょっと、葵!」

 母の呼ぶ声を振り切り、外に転がり出た。店長が私を呼び出す理由は分かっている。いつまでたっても誤差を防ぐことのできない私に、とうとう堪忍袋の緒が切れたのだ。行きたいわけがない。身体は見えない力で押さえられているかのように重い。無理に抗おうとすると、肉体のあらゆる箇所が鈍く痛み、私を非難する。

「何にそんなに怯えてるの? 情けない」

「臆病者。そんなに店長が怖い?」

「休みの日なのに。自分の権利も主張できないんだね。昔からそうだった」

奇妙な声が心中でやかましく反響した。これは何だ? 私の本音か? 何処から出た声だ? 足が止まった。

「うるさい……。行きたくないよ……。怖いよ……」

猛烈に喚き散らす店長が目に浮かぶ。喫煙所のテーブルを薙ぎ倒し、私の肩を掴み揺さぶる店長の姿。怒鳴られるだけでは済まないだろう。暴力も覚悟しなくては。胃が鋭い痛みに捕まり、脚が折れ、その場にしゃがみ込んでしまった。「もう耐えられない」とでも言うかのように胃が蠕動し、中身が逆流した。慌てて口を押さえようとしたが間に合わず、舗道に吐いてしまった。アスファルトを穢し、僅かな傾きに従って流れていく自らの吐瀉物。目の前に広がる惨事に目を覆いたくなった。何をしているのだ、私は。通行人が好奇と嫌悪の視線を私に突き刺している。「うわあ」だの「汚い」だの言う声。無理だ。こんな状態で行けるわけがない。やはり店に電話をして、体調が悪くて行けないと言おうか。そう思ったとき、

「行かないともっと酷い目に遭うよ」

 はっきりと頭の中で声が弾けた。その声は非難の声よりも大きかった。重すぎる足は駅へと私を運んでいた。

電車を降りると、店へと続く道が寒々と私を迎えた。悪い想像が頭を埋め尽くしている。様々な表情の通行人たちが前から後ろへと流れていく。誰か、私と代わって欲しい。誰でもいいから、成瀬葵になって、私の代わりに店に行って欲しい。あるいは、暴走車でも突っ込んできて私を轢き殺して欲しい。そんな自分勝手な、馬鹿馬鹿しい考えが浮かんだ。何とかして自分自身から逃れたかった。だが、そんなことは許されるはずもない。頭を垂れ、人の顔を見ずに歩いた。そして気付けば、店の従業員用出入り口の前に立っていた。非力すぎる手で扉を開けた。薄暗い通路に漂う空気が重苦しい。押し潰されてしまいそうだ。歩を進めていくと、厨房の入り口が見えた。捕食者の巨大な口のようだ。

「おはようございます」

 か細い声が口から出た。こちらを振り向いた店長の目が、病的なまでに血走っていた。誰も挨拶を返さない。私をちらりと一瞥しただけで、何もなかったかのように作業に戻る。嫌な空気だ。手足がどこまでも重くなり、私から力を奪い取っていく。

「喫煙所行ってろ」

 猛犬の唸りに似た猛々しい声が浅黒い口から洩れた。声は小刻みに震えていた。

 喫煙所は息が詰まるほど煙草の臭いが充満している。建設当初は白く、無垢であっただろう壁や天井は、濃い黄色に染め抜かれ、純粋さの名残はまったくない。陰湿な環境でせめてもの解消にと、有毒な煙とともに吐き出されるストレス。この部屋には従業員たちのストレスの記憶が染み付いている。怖れ慄きながら、テーブルの前のパイプ椅子に一人座り、私は待っていた。五分ほどしたところでドアが開き、店長が入ってきた。手には紙の束を持っている。ぎらぎらと光る目で私を睨みながら、大きな音を立てて私の向かいに着席し、乱暴に煙草を取り出し、着火する。

「これ見ろ」

 煙を吐き出しながら、紙束を私の前に叩き付けるように置く。悲鳴をあげるようにテーブルが鳴った。それは、ここ一ヶ月の出勤表だった。日付、出勤者名、誤差、レジ締めの担当者が細かく記載され、高額の誤差が発生した日は、蛍光ペンで印が付けられていた。

「どうもおかしいと思って、金が足りない日を洗い出したら、お前と吉田が出勤する日ばかりだった」

 固い地面に急に大穴がぽっかりと口を開け、その暗闇に飲み込まれていくかのような絶望。安全な平地だと思っていたのに欺かれた。入社式のときと同じような感覚だが、絶望の濃さはあのときの比ではない。疑いをかけられている。目の前が一気に暗くなるのを感じた。目の奥、脳の中心が重く鋭く痛み、その痛みで倒れそうになる。店長の目が放つ異常な光の色が、このときようやく見えた。

「俺が言いてえことは分かるよな?」

 太く浅黒い指がゆっくりと、一定のリズムでごつっごつっと紙を叩く。最悪だ。これ以上落ちようのないところまで、私は転がり落ちてしまった。ここに来るまでは、社員としての責務を果たせないことへの暴力を含む叱責だろうと予想していた。いや、それさえ私にとっては十分過ぎる恐怖なのだが、まさか、「責任を果たせない社員」から「容疑者」にまで零落させられようとは。最悪だ。私ではない。私がそんなことできるはずがない。誤解されたままではいけない、すぐに解かなくてはという切迫感で、私はヒステリックな音を立てて椅子から立ち上がった。冷たい涙が再び溢れ出す。

「私を疑ってるんですか? ちょっと待ってください! どうして私が……」

 勢いよく飛び出していた涙声が突如、断頭台のように鋭く重い刃で断ち切られた。テーブルの向こうから私を突き刺す三白眼。女の涙などまったく意に介さない目。凶悪犯のような、常人離れした凄味があった。男から放たれる獣性に気圧され、一瞬で萎びる哀れな主張。私は力なくパイプ椅子に崩れ落ちてしまった。

「私を疑ってるんですか、なんてよく言えるな。お前ら二人しかいねえんだ。当然だろうが」

静かな口調に、地を震わせることもできそうなほど圧縮された怒気が籠っている。当然? 私は何もしていないのに、一体何が当然なのだ。腹の底から何かの感情が湧き上がってくる。どす黒く、重々しく、うねるように動く感情が吐き出されるときを今か今かと待ち構えていたかのように暴れている。これは焦りだろうか、それとも怒りだろうか。あるいはその両方が混じり合ったものか。それともまったく別のものか。分からなかったが、暴れるそれはただ抱えるには重すぎた。だがそんな感情のうねりなど、眼前の男の圧倒的な凶暴さの前では取るに足らない。

「誤差が出始めてからおおよそ一ヶ月か。これだけの期間、一日だいたい一万ずつパクってりゃ、相当な額になるな。それだけの被害を店に出してるんだ。良心が痛まねえのか?」

 店長の語気が更に荒さを増していく。今回の件で本社にどれほど圧力をかけられたのか、私にも見えるような気がした。だが、断じて私は犯人ではない。それを口に出そうとしても、声は臓器に抑えつけられるように体内に留まってしまう。身体の内側が暴発しそうに苦しく、痛い。

「今日の午後に一応吉田とも面談する。だけどな、はっきり言うが、一番疑わしいのはお前なんだぞ。今正直に罪を認めれば情状酌量の余地はある」

 意味が分からない。何故私の方が疑わしいのか。その意味の分からなさを、力で無理矢理押し付けられている。とんでもない理不尽だ。

「お前を見てると腹が立って仕方なかった。バイトでもできる仕事が何で満足にできねえんだと思ってたよ。いつまでたっても作業が遅い、全体が見えない。沼田がいつもぼやいてるよ。だがその理由もやっと分かった。仕事できなくて、成長しようともがいて、でもいつも皆さんに迷惑かけて、そんな私可哀想でしょってか? そんな可哀想な私を隠れ蓑に、金パクろうってハラだったんだろ? 感心する演技だったよ」

 怒りに塗りたくられた顔を歪め、恐ろしい笑いを浮かべる。くっくっと口から笑いが漏れたかと思うと、すぐにもとの怒りの顔に戻った。その表情の素早い変化が常人の精神状態から逸脱して見え、私の血の気を更に奪った。

「この犯罪者が。必ず罪を暴いて、ブタ箱にぶち込んでやるからな」

 店長はそう言うと、煙草を灰皿に押し付けて揉み消し、紙を掴むと立ち上がった。

「話は終わりだ。もう一度言う。自首するなら今のうちだ。今言えば訴訟だけはしないでおいてやる。だが黙り通すつもりなら、容赦しねえ。確実な証拠が挙がるのは時間の問題だ。それをよく考えるんだな」

 店長は軽蔑しきった目で睨みながら私の腕を掴み、凄まじい力で引っ張った。身体が椅子から離れ、その拍子に椅子が倒れた。呆然とした私は、まさに罪人のように腕を押さえられ、廊下を引き摺られた。裏口から放り投げられるように外へ出された。

「十一か月育ててやったのに、その恩を仇で返しやがって」

 吐き捨てるような言葉が私に投げ付けられる。店長が店の奥に大股で歩き去っていくのを、私は虚ろな目で眺めた。

入社してからこれまでの十一ヶ月、必死に積み上げてきたすべてのものが音を立てて崩れ去り、心の中に真っ暗な空間が広がっていた。店長の頭の中では、私は完全に犯罪者になってしまっている。盗んでいるのは間違いなく吉田だろう。だが、彼女が口を割ることはないだろうし、先入観から彼女に疑いが向くことはまずないと言っていい。私は何もしていないのだから証拠などあるはずもないが、従業員全員に犯罪者として扱われてしまうことは明らかだ。そんなことに耐えられる気がしない。どうすればいいのだ。仕事ができずに苦しんでいるということ。そんなことがこんな形で敵に回ってしまうとは。どうしてこうもうまく運ばないのだ。私が何をしたというのか。自分で気付かないうちに何か悪事でも働いたのか。私は罰せられなくてはならない人間なのか。これが生きるということなのか、働くということなのか。私の平穏な生を邪魔しようとする、人智を超えた何ものかの思惑を感じずにはいられない。