伊藤計劃 『虐殺器官』 レビュー | 哲学のプロムナード

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http://x0raki.hatenablog.com/entry/Genocidal-Organ-ITOH-PROJECT-Review









9・11以降の、“テロとの戦い"は転機を迎えていた。
先進諸国は徹底的な管理体制に移行してテロを一掃したが、後進諸国では内戦や大規模虐殺が急激に増加していた。
米軍大尉クラヴィス・シェパードは、その混乱の陰に常に存在が囁かれる謎の男、ジョン・ポールを追ってチェコへと向かう……
彼の目的とはいったいなにか? 大量殺戮を引き起こす“虐殺の器官"とは?
ゼロ年代最高のフィクション、ついに文庫化。


・レビュー

これはなかなか説明の難しい小説だと思う。個人的には高評価だし、良かった。読みながら、色々と考えることもあった。短い小説だし、図書館にもあるから、気になったらサクッと読んでしまって、その後で「良かった」とか「普通だった」とか「読む程でもなかったとか」とかそんなことを思えばいいかなと、珍しく「考えないで読んでみたら」という感じの感想を持った。
まず、サクッと読んでしまって、などといえるのは内容が凄まじく濃厚であるにもかかわらず文体は非常に軽やかで読みやすいというところにある。内容が無理じゃなければスラスラ読むことができる。
内容は近未来、テロとの戦いが現代とは少し変わった未来。明示されてはいないけれど、ほんとにそう遠い未来じゃない話だというニュアンスだったように思う。2025年か30年か、そのあたりか。
ネタバレ無しだと非常に難しいのだけれど、この物語は現代人が過去から脈々と受け継いできた幾つかの根深い矛盾とか葛藤をテーマにしている。その手法として、現代よりも進んだ科学だとか、テロと向き合うために変化してきた世界の有り様を用いている。そういった現代を超越したSF的な道具を使うことで現代的なテーマを浮き彫りにしているという感じ。
タイトルからは想像できない繊細さのある小説で、一人称視点だということが大きく鍵になる。
ネタバレになるのでこれがどういう意味なのかは書けないのだけれど、これは非常に重要なポイントだと思う。
エピローグは賛否あるようだけれど、個人的には小松左京の評価がある意味では正当で的確だったということを述べた上で、それでもあのラストにすべきだったと思う。
『ハーモニー』の方も、あまり時間を開けずに読んでおこうと思う。ノイタミナでアニメ化されるようなので。
ネタバレの上での感想に関してはブログの方に警告付きで加えます。
というわけで、就活の移動中に少しずつ読んでいたものをようやく読み終えました。
全然サクッと呼んでないんだけどね、僕はw
レビューにも書いた、小松左京の評価についてと、ネタバレ込の考察・感想についてはこの下に書きます。







ここからネタバレ

















肝心の「虐殺の言語」とは何なのかについてもっと触れて欲しかったし、虐殺行為を引き起こしている男の動機や主人公のラストの行動などにおいて説得力、テーマ性に欠けていた。

これが小松左京の評です。

まあ全否定の感も否めないけどね、これ(笑)

軽く触れておきたいと思う。

虐殺の言語というのは、作中で「虐殺の文法」として登場しているものだけれど、日本文化を学ぶ者として、これは呪(まじな)いとしての言語、言霊のようなものから着想を得ただろうということと、もっと現実に則した言い換えのようなものも想定しているかもしれない。ナチスが虐殺を処理と言ったりとかね。まあこれは正直僕ももうちょっと具体的に説明しても良かったんじゃないの?とは思った。もしかしたらまずそんなものを具体的に説明することが不可能だったのかもしれないけどね。具体的にすればするほど実現性において確実な無理が見えてきて呪術的なイメージが損なわれるから。進化における産物であるというような説明が若干あったけれどあれが必死に頑張った結果として限界の説明だったのかもしれない。

ジョン・ポールの動機に関しては、まあ納得は行く。これは抽象的な至高が苦手な人にはそんな理由でこんなことするかよって思うかもしれないけれど、思考を最も大事にしているような僕みたいな人種としては動機としては十分。

ただ、感覚的に腑に落ちないのはそもそも、たとえばアメリカのためにその他の国で虐殺を起こすというのが効果的なのかどうかだよね。作中では効果的だったから矛盾はないけれど、ちょっと親近感は湧きにくい。なぜなら富裕国の自由のために貧困国に不自由が生じるという現象は作中の認証社会とか高度な科学とかそういうものがあってこその思考回路であって、そのことをもう少し作中で表現しないと、読み手は安易に自分の時代に当てはめるからね。あくまでもあれは未来的な動機だと思わないとぼんやりしてきてしまう。僕個人としてはここは特に問題じゃなかったけれど。

主人公のラストに関して。エピローグで、一人称について軽く描写している。これまで読者が呼んだものは主人公の語りであるというニュアンス。これには2つ思うところがあった。ひとつは、主人公は思考に関してカウンセリングによる統制がなされているということ。そもそもこの主人公は文学的に淡々と喋るようだけれど、戦闘中の描写あたりのあまりに落ち着いた語りはぼんやりとカウンセリングによる効果を表現してるんじゃないかなと思った。後半、自分の意志がそこに在るのかという疑念が出てくるわけだけど、まさにこの語りは作られた語りなのかもしれない。考察の域の話だから全然違うかもしれないけれど。ふたつ目は、この文章こそ、どこか虐殺の文法的な表現法なんじゃないかという感覚。これは感想だけどね。どこか麻痺してくるような、あまりに冷たいような、残酷というか悲しいというかそういう感覚が読んでいて感じられる文だったなと後から思って、こういう感覚が世の中で蔓延したらきっと虐殺に繋がるんじゃないかなってちょっと思ったりもした。

そういう意味で、ラストの主人公の行動はかなり常軌を逸していたような気もする。あまりに自分にとっての救いが消滅していって、まわりの人間が死んでいって、結果として虐殺の文法に自身が魅入られたような感じ。

その一方で、完全に正常だったとも考えられる。論理的に、ジョン・ポールと真逆のことをやって、それを自身の罪として背負うことで「救われない救済」を得るというような論理的な行動。

これはどっちとも取れる気はするけれど、もしかしたら両方なのかも。まあどう考えても、ジョン・ポールが死んだ今、「アメリカ以外のすべての国のために」はならないと個人的には思う。だからあの行為はあまりに不条理な感じがして、それが読後感として後を引く。

面白い終わり方だったとは思うけれど。

総合的には、良いものを読んだという気がする。