posted at 06:12:50
これは先生も言っていて、僕も『シフト -真理を映す目- 』という小説を執筆した時に聖書を読んで最初に思いました。
Twitterでは詳しく書きませんでしたが、エデンの場所についてです。
まず楽園追放はどういった話かというと、Wikipediaにはこう解説があります。
『創世記』
旧約聖書『創世記』によると、アダムの創造後実のなる植物が創造された。アダムはエデンの園に置かれるが、そこにはあらゆる種類の木があり、その中央には命の木と善悪の知識の木と呼ばれる2本の木があった。それらの木は全て食用に適した実をならせたが、主なるエホバ神はアダムに対し善悪の知識の実だけは食べてはならないと命令した。なお、命の木の実はこのときは食べてはいけないと命令されてはいない。その後、女(エバ)が創造される。蛇が女に近付き、善悪の知識の木の実を食べるよう唆す。女はその実を食べた後、アダムにもそれを勧め、2人は目が開けて自分達が裸であることに気付き、イチジクの葉で腰を覆ったという[2]。
この結果、蛇は腹這いの生物となり、女は妊娠の苦痛が増し、また、地(アダム)が呪われることによって、額に汗して働かなければ食料を手に出来ないほど、地の実りが減少することを主なる神は言い渡す[3]。アダムが女をエバと名付けたのはその後のことであり、主なる神は命の木の実をも食べることを恐れ、彼らに衣を与えると、2人を園から追放する。命の木を守るため、主なるエホバ神はエデンの東にケルビムときらめいて回転する剣の炎をおいた[4]。
つまるところ知恵のみを食べたことで追放されたわけです。
これには解釈の仕方がたくさんあって、僕がTwitterで呟いたエデンの園を内なる楽園とするというのはつまり人間誰しもその身の内に楽園を持っているという意味です。
知恵の実を食べて知恵を得た人間は追放される。
人間は知識を手に入れることで、本来知らなくていいことや考えなくていいこと、考えることの苦しみを体得してしまったのではないかという解釈ですね。
本能に身を任せて生きることが出来れば人は見るものすべてを楽園と捉えるかもしれない。
posted at 06:15:57
これもTwitterでは一部省略しましたが、KnowledgeかWisdomという話も授業で取り上げられました。
知識(Knowledge)は、人間、ものごとについて抱いている考えや技能のこと。
知恵(Wisdom)は、知識によって得られたもの、という意味から発展して、
今では主に、ものごとの道理をわきまえていて適切にふるまう能力のことを指す。
よく子供が尋ねることに以下のようなものがあります。
「なんで将来使わないことを勉強するの?」
これの解答が可能です(教師志望者注目w)。
「知恵を得るためだよ」
これが僕には正解のように思えます。
たとえば数学は僕は日常生活では要らないと思っていますが、学ぶ必要がないかというとそうでもない。
義務教育まではやはりやるべきでしょうね。
僕は高校からは選択授業性でいいと思ってますが、これは余談なのでまた今度。
つまり、知識は情報そのものです。
数学ならば数式だったり公式だったり。国語なら漢字とかかな。
知恵はそれを記憶する経緯で得られる方法論だと僕は解釈してます。
数学は数学ではなく数学的思考のために学ぶのです。
如何にして覚えるか、どのように取り組むか、何をすべきか、それは知恵です。
それを学ぶために暗記や詰め込みのような知識の蓄積をやらされるんですね。
僕は経験則で解りますが、これは個人のキャパシティを超えては駄目です。
知識ばっかり詰め込まれると痛い目にあいます。
近頃学歴社会が崩壊していると聞きますがようやく、知識よりも知恵にウェイトを置くべきということに気づいたんでしょうね。
良い教育は、ナレッジの学びでウィズダムを体得する教育だと思います。
posted at 06:24:02
ここで僕がカッコつきで「知恵」といっているのは、聖書の英訳の
tree of the knowledge に従うと「知識」になるはずですが知恵の樹実と言われているからですね。
まあ、これは僕みたいなひねくれ者の解釈での話しなので一般論だと思わないでくださいね。
posted at 06:24:08
posted at 06:32:47
posted at 06:42:21