旧約聖書の勉強を始めてみて思ったこと、教育の在り方について | 哲学のプロムナード

哲学のプロムナード

読書・音楽・映画のレビュー・感想文、創作小説、日記などが話題の中心です。投稿サイト「小説家になろう」やTwitterでも活動中。


さて今日は聖書の話。
僕は今春から旧約聖書の勉強を始めました。
大学の宗教文化論という授業なのだけれど、正直、今期の大学の授業で一番面白いなと思ってます。

まず何より宗教や哲学を扱う教員というのは持論を持っていて、かつその持論を押し付けないというのが大事です。

これらの学問は史実を除けば、基本的に正しいか否かは判別がつかない。
あるのは正誤ではなく説得力の有無です。
哲学に関しては史実どころか自身の存在すら疑えるわけですけどね。

例えば死後の世界があるか?
というテーマだって、説得力のある意見はあったとしても、実際に死を内的に体験できる人がいない以上実際どうなのかは何時まで経ってもイーヴンなんです。

まあ、この授業の先生はそういう、究極的な答はなく、情報は自分で考えて受け取るべきというスタンスだったので僕としては共感できます。


閑話休題。


聖書の勉強といっても、まだ三回しか授業受けてませんし、聖書をテキストとした授業はまだ二回。

天地創造、楽園追放、カインとアベル、ノアの方舟、バベルの塔、までしか解釈はしてないです。
旧約聖書は神話・歴史・預言(+その他)という構成ですが、その神話に当たる部分ですね。

あ、ちなみに、これは半ば常識だけれど、旧約聖書を経典としているのはユダヤ教、キリスト教、イスラームの3つです。
アブラハムによる神との契約後、約束された子孫と土地ですが、まあ色々あって危機に陥ります。
そこでメシア(救世主)待望論という思想が生まれ、ユダヤ教では未だメシアは現れていない。キリスト教ではイエスがメシアであるとされ、新たな契約を結びます。そしてイスラームではイエスは預言者に過ぎずムハンマドがメシアだとされます。
つまり解釈の違いで分化したんですね。
ざっくりとした説明なので細かいところは知らないですけどね。それこそ僕が素人目線で話すことはあまり信用しちゃ駄目です。


その解釈ですが聖書の解釈の幅は凄いです。
そのことについてTwitterで少少呟いたので、それを紹介したいと思います。

x0raki(クリックで僕のTwitterホームに飛びます) 
Twitter 2012/05/10のポスト↓



最近旧約聖書勉強し始めて、まだ創世記終わったとこだけれど、やっぱりあれは解釈の振り幅が普通じゃない。 例えば楽園追放一つをとっても、それを人間の内なる楽園ととるか物理的場所として取るかで解釈が違う。

posted at 06:12:50


これは先生も言っていて、僕も『シフト -真理を映す目- 』という小説を執筆した時に聖書を読んで最初に思いました。
Twitterでは詳しく書きませんでしたが、エデンの場所についてです。

まず楽園追放はどういった話かというと、Wikipediaにはこう解説があります。


『創世記』

旧約聖書『創世記』によると、アダムの創造後実のなる植物が創造された。アダムはエデンの園に置かれるが、そこにはあらゆる種類の木があり、その中央には命の木善悪の知識の木と呼ばれる2本の木があった。それらの木は全て食用に適した実をならせたが、主なるエホバ神はアダムに対し善悪の知識の実だけは食べてはならないと命令した。なお、命の木の実はこのときは食べてはいけないと命令されてはいない。その後、女(エバ)が創造される。が女に近付き、善悪の知識の木の実を食べるよう唆す。女はその実を食べた後、アダムにもそれを勧め、2人は目が開けて自分達が裸であることに気付き、イチジクの葉で腰を覆ったという[2]

この結果、蛇は腹這いの生物となり、女は妊娠の苦痛が増し、また、地(アダム)が呪われることによって、額に汗して働かなければ食料を手に出来ないほど、地の実りが減少することを主なる神は言い渡す[3]。アダムが女をエバと名付けたのはその後のことであり、主なる神は命の木の実をも食べることを恐れ、彼らに衣を与えると、2人を園から追放する。命の木を守るため、主なるエホバ神はエデンの東にケルビムときらめいて回転する剣の炎をおいた[4]


つまるところ知恵のみを食べたことで追放されたわけです。

これには解釈の仕方がたくさんあって、僕がTwitterで呟いたエデンの園を内なる楽園とするというのはつまり人間誰しもその身の内に楽園を持っているという意味です。
知恵の実を食べて知恵を得た人間は追放される。

人間は知識を手に入れることで、本来知らなくていいことや考えなくていいこと、考えることの苦しみを体得してしまったのではないかという解釈ですね。
本能に身を任せて生きることが出来れば人は見るものすべてを楽園と捉えるかもしれない。


昨日は知恵のみをナレッジとするかウィズダムとするかって話があったけれど、内なる楽園からの追放ならば、Knowledgeの木の実ってことになりそうだね。

posted at 06:15:57

と、言ってみたものの、聖書原文ではKnowledgeなのかWisdomなのか僕は知らない。 てか原文は英語じゃないからな、そもそも。

posted at 06:21:10

tree of the knowledge っぽいね

posted at 06:30:30


これもTwitterでは一部省略しましたが、KnowledgeかWisdomという話も授業で取り上げられました。


知識(Knowledge)は、人間、ものごとについて抱いている考えや技能のこと。

知恵(Wisdom)は、知識によって得られたもの、という意味から発展して、

今では主に、ものごとの道理をわきまえていて適切にふるまう能力のことを指す。


よく子供が尋ねることに以下のようなものがあります。

「なんで将来使わないことを勉強するの?」

これの解答が可能です(教師志望者注目w)。

「知恵を得るためだよ」

これが僕には正解のように思えます。
たとえば数学は僕は日常生活では要らないと思っていますが、学ぶ必要がないかというとそうでもない。
義務教育まではやはりやるべきでしょうね。

僕は高校からは選択授業性でいいと思ってますが、これは余談なのでまた今度。 



つまり、知識は情報そのものです。
数学ならば数式だったり公式だったり。国語なら漢字とかかな。

知恵はそれを記憶する経緯で得られる方法論だと僕は解釈してます。

数学は数学ではなく数学的思考のために学ぶのです。

如何にして覚えるか、どのように取り組むか、何をすべきか、それは知恵です。
それを学ぶために暗記や詰め込みのような知識の蓄積をやらされるんですね。

僕は経験則で解りますが、これは個人のキャパシティを超えては駄目です。
知識ばっかり詰め込まれると痛い目にあいます。
近頃学歴社会が崩壊していると聞きますがようやく、知識よりも知恵にウェイトを置くべきということに気づいたんでしょうね。
良い教育は、ナレッジの学びでウィズダムを体得する教育だと思います。


聖書の解釈が多岐にわたっているのは、それこそ我々が「知恵」をもってしまったからだし、翻訳の段階で元々の意味から解釈が変わったりしてるのが大きいよね。

posted at 06:24:02

ここで僕がカッコつきで「知恵」といっているのは、聖書の英訳の
tree of the knowledge に従うと「知識」になるはずですが知恵の樹実と言われているからですね。
まあ、これは僕みたいなひねくれ者の解釈での話しなので一般論だと思わないでくださいね。


バベルの塔の話はまさに今でも起きてる感じはする。あれは言語の多様化の原因譚の神話だけど、やはり人が本質的に分かり合えないことの原因譚の意味もあるかもね。

posted at 06:24:08


バベルの塔のエピソードは以下のようなもの。

ノアの洪水の後、人間はみな、同じ言葉を話していた。

人間は石の代わりにレンガをつくり、漆喰の代わりにアスファルトを手に入れた。こうした技術の進歩は人間を傲慢にしていった。天まで届く塔のある町を建てて、有名になろうとしたのである。

神は、人間の高慢な企てを知り、心配し、怒った。そして人間の言葉を混乱(バラル)させた。

今日、世界中に多様な言葉が存在するのは、バベル(混乱)の塔を建てようとした人間の傲慢を、神が裁いた結果なのである。 


つまりこの世に沢山の言語があることの説明にあたる神話です。

ただ、これも解釈の一つですが、人間は分かり合えないということなのかも知れません。そしてそうなった原因譚。
それは信頼という意味の「分かり合う」もありますが、そもそも死と同様に、他者を内的に体験することは出来ませんしね。


まあ、とりあえず授業を聞いて、自分なりに色々と考え直したのはこんな感じです。
なるほどなぁって感じですね。

僕も相当解釈を変えて物事を考えるタイプですが、やはり専門家の授業を聞くと色々考えることが増えますね。
これこそウィズダムの会得でしょう。

聖書は冒頭の数ページでこれだけ考えられるものです。
そういう意味でも面白さがありますね。
これは信仰していない人間ほど面白く感じたりして。



下の二つのポストはおまけです。
極主観的な発言なので、解説はしませんw


機会があったらまたこういう記事は書きたいなと思います。
それでは、この辺で。

ちなみに 映画の『ツリー・オブ・ライフ』(原題: The Tree of Life)は生命の樹だよね。 あの映画予告編だと内容さっぱり判んないから観てみたいんだけど、観る機会ないし、日本じゃ宗教感覚的に売れないし話題も呼ばないからテレビ放送はしないだろうなぁ。

posted at 06:32:47

宗教戦争ってのはホントにやめてほしいね。人が争って勝手に命が失われるってことに関してはもうどうしようもないしある種の経済活動の面もあるから僕は否定できない(心底くだらないとは思う)が、宗教戦争ってのはそれが起きるあるいは起きそうになるということ事態が宗教の統一感を損ねる。

posted at 06:42:21