便宜上歪められたもの | 哲学のプロムナード

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おはようございます。


今日は火曜なので二限、四限、五限という日程。

四時間程の空き時間があります。

まぁ簿記の宿題が数時間かかるのであまり空いてないのだけれど。

ちなみに20時間分程度の量があったゴールデンウイークの課題を満身創痍で終わらせた成果か、昨日の簿記の仮試験は100人程のクラスで上位のスピード、かつ満点でした。
この調子で本番も上手くいくといいな。

さて、明日の空き時間には読書もしたいので、今日で宿題は終わらせたいね。


明日はいよいよクラークの『幼年期の終わり』を読み始めます。
それが終わったら坂口安吾の『不連続殺人事件』読もうと思います。

京極堂シリーズはちょっと休憩。
知的ミステリなので疲れるのでね。

本題。

今日は英語の授業でちょっとためになることを思い出しました。

義務教育の教えは便宜上歪められたものであることがあるということ。
これは僕の基本スタンスの懐疑主義に繋がります。

冠詞のaとその例外のanという教え方が本来違うというのをやりました。

僕はこれを知っていましたが、歴史上英語の冠詞はこの通り発生したわけではないらしいね。

普通はaを使い、例外的に母音の前の時だけにanを使うと、中学では便宜上歪められて教わります。


しかし実際は逆です。
元々、anがあって、後にnが消失してaが派生したそうで。


というのもあれは元々「一つの」という意味ですね。

なので祖先はONEでしょう。
そこからのanです。
そして子音のまえでnの消失というわけです。

他の言語でaと同じ役割をもつものは、
ein
un(a)
een
um(a)
とおよそ似ているものが多い。
上からドイツ、スペイン・イタリア、オランダ、ポルトガルとヨーロッパは大体nが付きます。
フランス語はdeでしょうからちょっと違いますが。

つまり、例が多い方を覚えやすいようにaが最初にあったかのような印象を与える教育が多いです。
「基本的にはa」とか言って教えると思うので原義に関しては触れないんです。
すると教わってないんですからaが先だと思いがちですね。

これは他の分野でも多々あって、数学にも多い。まぁその辺は竜司にでも聞いた方がいいだろうけど。
僕は数学は出来ないし。

ここから学ぶべき教訓は、常識と教育と情報はまず疑ってから受け取ることです。

そのあとで自分の立場を決める。
それが大事ですね。


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