自分の半生を綴ってみた | 哲学のプロムナード

哲学のプロムナード

読書・音楽・映画のレビュー・感想文、創作小説、日記などが話題の中心です。投稿サイト「小説家になろう」やTwitterでも活動中。

先日から書いているとおり、僕の記憶はかなり曖昧です。


どのくらい曖昧かというと、ウィキペディアで芸能人の略歴を観ていただければよく解ります。


読み終わったときの理解度、要するに他人の略歴を文書で観た程度です。


ちょっと前に、修学旅行はどこに行ったかっていう記事を書いて、その時に自分の過去を振り返ったのがきっかけで、深く考えるようになったのですが、その時は記事を書きながらかなり青ざめていました(笑)


ここまで覚えていないのか・・・と。


そうは言っても、全く気がついていなかったわけではないです。


勿論、人間、誰しもが過去を追憶することはあるかと思うのですが、その度に「あれ、小学生時代ってどんなだっけ?」って思うわけです。


それはおそらく、万人に言えることで、毎日を新鮮に生きていた人を除けば、日常生活なんて早々に忘却してしまうものです。


唯・・・僕の場合はその程度が甚だしい。


明らかに他の人よりも記憶がない。


これが、完全に消失しているなら寧ろ良いんですが(いや、良くないけれどさ)、一応過去の僕が今の僕と同一人物であることが分かる程度には、記憶はあるんです。


正確には、「過去の自分と今の自分が同一の身体を使っていた」ことが分かるんですけれどね。


つまり、過去の自分と今の自分が中身まで一緒だったかが分からない。


いや、別にSFの話でもホラーの話でもないです。


自分が誰かに乗っ取られて、乗っ取ったのが僕です、的な話をしているのではなく。


単に、僕がどこからか別人のように人格を変化させてしまったらしいことが判明したってことなんです。


別人ではないけれど、別人の「ような」変貌ってことです。


僕は地元の幼稚園に入園して、その時のメンバーでそのまま小学校に進学し、またそのメンバーと一緒に中学に進学しました。


なので、幼稚園の頃から僕を見ている人間は思いの外沢山います。


多分五十人くらいかな。


小学校で他の幼稚園や保育園の人たちが混ざったから、小学校からの同級生なら百人くらいは僕と一緒に生活してたわけです。


多分、彼らからすれば僕は変わってないんだと思います。


少なくとも、自然なレベルの変化、同じ性格で大人になる人間はいないわけで、つまり誰でも同じ、誤差の範囲の変化って事になるんだと思います。


だけれど、僕は僕じゃなくなったんです。どこからか。


その時、僕は過去の記憶を捨てたんだと思う。


普通の人が捨てない域の記憶を掘り起こして綺麗サッパリデリートしてしまった。


最近、基礎的な心理学を学び始めたのですが、記憶が消滅することはないそうで、あくまで、「想起」出来なくなるだけらしいです。


要するに、きっかけさえあれば呼び出せる。


僕の記憶喪失も眠ってるだけで失ったわけではないと思うんです。


僕の人格変成は中3から高一くらいまでの間に起こっていて、そこから新しい記憶箱が形成されたと思われます。


・・・で、新しい箱に中2以前の記憶を移す過程でその大半を忘却面に捨ててしまったんだと思う。


解りやすく図解してみます(クリックで拡大します。別タブでひらくといいかも)↓

$哲学のプロムナード


拡大できない人用(多分半分くらいは切れますが)↓

$哲学のプロムナード


つまり、中2以前の僕が持っていた重要な記憶が新しい自分に変わる際に分裂して、その大半を健忘したのではないかというのが僕の見解です。


残った方は、新しい僕に必要だったから残った。


これにはそれなりの理由があります。


僕は正直、他の人よりも視点が高いです。


精神的な意味で。


これはあまり説明するのが簡単じゃない話なんですけれど、普通の人が物事を考える時がビデオカメラを覗いてる状態だとすれば、僕の考え方は衛星カメラにあたります。


ひと言で言えば哲学的。


知っての通り、哲学はあらゆる学問の起源です。


すべての学問は哲学から派生して今に繁栄しています。


哲学が廃れてしまったのは、実益がないからです。


心の動きを学ぶのが心理学、数と法則を学ぶのが数学だとすれば、


心はそもそも何なのか、数って何なのか、心や数は本当に実在するのか、と考えるのが哲学です。


つまり、他の学問では前提になっているものそのものを考えるのが哲学です。


僕の考え方はそれです。


つまり、生きている上で何か実益を得るわけではないし、興味がない人には無駄な思考をしているようにしか見えないと思う。


その考え方が僕に根付いたのが中三だった。


そこで僕は過去の下らない自分を呪ったんです。


根本を考え始めたことで、過去にいかに上辺だけのことを考えていたか知った。


心底下らないって思った。


多分、それで僕は過去の記憶を忘れることにしたんだと思う。


僕はその頃、そういう考え方、哲学的な思考をできる人間のほうが他の人間より優れているって本気で思ってた。だから、周りの人間を低級な存在だと思ってたし、下位の生命体だと思ってた。


今、僕は必ずしもそうではないと思っている。


他の人より根本を見ることが出来る自分の考え方は優れた長所であり、短所でもあると思ってる。


同時に、他の人の考え方、つまり、一面的だけれどそれに打ち込めるストレートな考え方も長所であり短所であると思ってる。


そういう考え方になったのが高3の時。


その辺りから、僕は過去の記憶が異常に希薄であることに気が付いた。


多分、自分と違う生き方や考え方も認めるようになって、自分が他の人と同じ考えだった頃の記憶を想起しようとしたんだと思う。


でも、残念ながら既にそれは捨てたものだった。


僕が変わったきっかけを作ったのは二人の人物です。


一人は僕の小説の相方の竜司、竜司は僕が哲学的思考に切り替わる土台を作ったと言える。


僕が変わったのは竜司の考え方が理にかなってると思ったからだと思う。


もともと、深層心理的に僕は根本に何があるか考えるタイプの子どもだった。


真理を求める上でもっとも重要なのは論理であると僕は思ってる。


僕の中でもっとも真理に近かったのは竜司だった。


その辺の大人よりよっぽど世界の真理に近かったし、僕は彼の考え方を取り入れることにした。


中3の頃、もう一人のキーパーソンに出会った。


そいつとの関係はかなり深いとこまでいって、結果として僕はそいつが自己の幸福のために不可欠な人間だと知った。


でも、幸福っって言うのはそれだけで何もかも満足させてしまうもので、僕は高一の頃随分と身勝手な人間に成り下がった。


僕はそいつが居れば他のことはどうでも良かったし、他のことに心を傾けることに意味を感じなかった。


高2の頃、僕はそんな自分に疑いの目を向けた。


まぁ・・・これを書くと一冊の本が出来上がってしまうくらい僕の中で重要な事件だったから割愛するけれど・・・


僕は結果として、そいつ乖離することで人間的成長を進めるか、そいつと一緒に居て成長を止める代わりに幸福を得るか、選択を迫られた。


で、前者、つまり幸福を捨てて哲学を追求する道を選んだ。


これに関して、僕はまだ答を見つけてはいない。


どっちが正しくてどっちが間違ってるかなんて分からないし、今でもどっちを選ぶべきだったか悩んで死にたくなる時がある。


これはもう僕のバイオリズムで、多分、この先ずっとそれを考える運命にあると思う。


そんな経験を通して僕は哲学を深めた。


その選択の直後、僕は前述したとおり、自分以外の人の考え方も正しいって思えるようになった。


とにかく、今、僕は自分が変わったことに、後悔はしていないし、これでよかったと思ってます。


その上で、過去に何を感じて何を考えていたか思い出したいです。


機会があれば、催眠療法でも何でも使って引っ張り出したい。


・・・なんか、僕の半生(もちろん過去は忘れているのでここ5年で生まれた新しい自分の半生だけれど)を綴った形になっちゃったね。


とにかく、今僕はそれなりに成長して、生きてます。


これからも多分、僕はこの世界を哲学し続けるし、それにしたがって、変わっていくんだと思うけれど、記憶を留める努力をしたい。


僕は努力って言葉が大嫌いだけれど、それだけは本気で努力したいと思います。