いつもより早く起きすぎたせいで、朝の支度をするのに時間に余裕が持てた。台所の棚からコーヒーミルを取り出した。コーヒーミルとは、珈琲豆を挽く器具の事である。最近、個人的に珈琲にはまっていた僕は、一昨日新しい珈琲豆を買っていた。薬缶に水をいれ火に掛けながら、珈琲豆を挽いた。
高一の夏の事だった。僕は初めて夏海と出かける約束をした。夏海がメールで誘ってくれたのがきっかけだった。入学し、数日してから夏海と話すようになった。初めのうちは少し緊張しあいながら話していた。お互い何処かぎこちなかった。たまたま夏海と帰り道の方角が一緒だった。僕は自転車通学だった。一ヶ月くらいして、夏海が携帯の番号とメールアドレスを教えてくれた。たまたま同じクラスになって、たまたま隣の席だった事がこのような結果を齎したのかもしれない。それは、僕にとって嬉しい事だった。
“八月五日、予定ある?”
夏海からのメールだった。
“ないけど、どうしたの?”
“あのさぁ、夏祭り一緒に行かない?”
初めての夏海からの誘いだった。
“うん、いいよ。”
“やった。浴衣着ていくね。”
“うん、期待しているよ。俺は何を着ていけばいいかなぁ?”
“何でもOKだよ。”
“じゃあ、普段着かな。それ以外選択肢がないけど。”
“エヘへ”
“いつ集合するの?”
“うーんとねぇ、六時に神社の所で逢おう。”
“わかった、六時ね。”
僕は待ち合わせ時間より少し早く着くくらいに家を出た。神社の入り口あたりで夏海を待っていた。夏海を待っている時間も、何故か僕は幸せだった。しばらくして、階段を上がる足音が聞こえた。そこに夏海の姿があった。浴衣姿の夏海は初々しかった。僕は今までに制服姿の夏海しか知らなかった。
「ごめん、待たせちゃったね。」
夏海が謝ってきた。
「ううん、俺も今来たところだよ。」
僕は小さな嘘をついた。誰もが気づいてしまうくらいの・・・。
「可愛いね。」
「えっ、」
夏海の顔が少し赤くなった。僕の顔も少し赤くなっていた。
「ありがとう。」
僕はニコッとした。
「行こうか?」
僕がそう言うと、夏海が頷いた。
「うん。」
僕の隣を夏海が歩いた。敷石の両端には露店が並んでいた。おいしそうな匂いが僕らの鼻を誘った。僕と夏海はお腹がすいていた。僕は鳴りそうなお腹を手で軽く押さえた。
「何か食べようか?」
夏海がそう言った。
「うん。何が食べたい?」
夏海に訊いてみた。僕らの目の前にたこ焼きの露店が見えた。
「たこ焼きにしようか?」
「うん、そうだね。」
僕はたこ焼きを一パック買った。お店の人は一パックのたこ焼きを袋に入れて渡してくれた。僕らは少し歩き神社の本堂の階段あたりで、たこ焼きを食べることにした。
「座ろうか?」
僕がそう言って、ズボンのポケットからハンカチを取り出して、階段に敷いた。
「どうぞ。」
そこには、ちょっと紳士きどりをした僕がいた。
「ありがとう。」
僕は少し恥ずかしくなった。階段に座り、たこ焼きを食べることにした。袋からたこ焼きを取り出してみると、中には串が一つしか入ってなかった。夏海も袋の中を確認したが、やはり、串は一本だけだった。
「一本しかないね。」
僕がそう言うと、夏海はニコニコしていた。
「おいしそうだね。」
夏海の目はもうたこ焼きの方にあった。
「お先にどうぞ。」
「ありがとう。」
夏海はたこ焼きを口にした。
「おいしい。」
夏海は笑顔だった。
「ア~ン。」
「えっ。」
夏海が僕の口の前にたこ焼きを差し出した。僕は少し恥ずかしかった。僕は一口でたこ焼きを頬張った。たこ焼きは大きかった。僕はそのたこ焼きが今まで食べた中で一番おいしく感じられた。僕は幸せだった。三つずつたこ焼きを食べ終えると、僕と夏海は立ち上がった。夏海はハンカチを丁寧に畳んでくれた。
「これ、洗ってから返すね。」
「えっ、いいよ。」
夏海は、僕の声が聞こえていなかったみたいで、大事そうに僕のハンカチをしまっていた。
「次はどうしようか?」
「うーん。」
夏海は、少し考えて、こう言った。
「歩きながら決めない?」
「うん、そうしよう。」
僕らは敷石の上を歩きながら、話をした。
「夏休みの宿題、進んでる?」
夏海はそう訊いてきた。
「ボチボチかな。」
僕はそう答えた。僕は夏海の顔を見ることが出来なかった。しばらくして、夏海が立ち止まった。僕はそれに気がつかなく、グイッと腕をひかれた。
「金魚掬いしよう。」
夏海が嬉しそうにそう言ってきた。
「しようか。」
僕は笑顔で答えた。
「二人分下さい。」
「はい。」
お店の人から薄い紙を張った針金を二本渡された。夏海に一つそれを渡した。先に夏海がチャレンジした。一匹も掬えずに夏海のやつは破けてしまった。お店の人が小さな袋の中に網で掬った金魚を数匹いれてくれた。次に僕がチャレンジした。僕が一匹掬うと、夏海は嬉しそうだった。続いて二匹、三匹と掬ったが、三匹掬ったところで破けてしまった。小さな袋の中には三匹の金魚が入れられた。僕は右手に金魚の入った袋を持ち、夏海は左手に持っていた。夏海の右手が僕の左手に触れたその時、僕はドキッっとしたが、夏海の手を握ることが出来なかった。しばらく歩いていると、
「林檎飴が食べたいなぁ。」
と夏海がいい、夏海は目の前にあった林檎飴の店に駆け寄った。
「林檎飴下さい。」
嬉しそうな夏海の声が聞こえた。僕は夏海の左手に触れた。
「金魚持ってあげるよ。」
「ありがとう。」
夏海は僕に金魚の入った袋を渡した。夏海の方には二匹の金魚が入っていた。夏海は林檎飴を口にしながら一緒に歩いた。夏海は本当においしそうな顔をしていた。林檎飴が食べ終わると、
「クジをしよう。」
と夏海が言った。僕は頷き、クジをひく事にした。互いに一回ずつ引いた。僕はハズレだった。夏海は大きなぬいぐるみを貰っていた。そのぬいぐるみは大きくて夏海は両腕いっぱいぬいぐるみを抱えていた。
「ぬいぐるみもとうか?」
僕が夏海に訊いた。
「ありがとう。じゃあ、金魚貸して。」
夏海のぬいぐるみを僕が持ち、金魚を夏海が持った。
「そろそろ帰ろうか?」
僕がそう言った。
「そうだね。」
「家まで、送っていくよ。」
「ありがとう。」
僕は大きなぬいぐるみを抱えていたため、夏海と手を握ることはもうなかった。夏海と一緒に夏海の家まで向かった。夏海の家を僕はまだ知らなかった。近くまでは学校帰りに行ったことはあったが、家までは行ったことがなかった。僕らは、夏海の家の前まで来た。夏海は玄関のドアを開けた。
「お邪魔します。」
「どうぞ。」
夏海は少し笑った。僕は夏海の家の玄関に大きなぬいぐるみを置いた。
「それじゃあ、おやすみ。」
僕が夏海にそう言うと、夏海が
「金魚は?」
と訊いてきた。僕は、
「夏海に、あげるよ。」
と言った。
「ありがとう。」
夏海は嬉しそうだった。