ギシギシとフローリングの床のきしむ音が、
もたれた背中の壁から伝わってきて、
沙緒子はネネが帰ってきたことに気が付いた。
最近は、ネネの帰りが遅いから沙緒子は、
ipodのイヤフォンを耳につっこんでベッドの上にいることが多い。
自分が心地よいかどうかもわからないような深い眠りの井戸の底から
急に望んでもいない意識の世界に引き上げられるのが苦痛に感じたからだ。
その日は、なんというわけでもなくダウンロードしたラジオをi podで
聞きながら、壁にもたれて本を読んでいたので、ふっとその
我が家への帰還を無事に果たしたネネの気配を振動で感じ取った。
耳にイヤフォンをつっこんでいる日にネネが帰ってきても
沙緒子は「おかえり」の一声を発さないようにしていた。
それは、特に理由もなく。“なんとなく”、億劫だったのだ。
ただ、その日は、いつもとそう大差もないその日は、
沙緒子は足を伸ばして本を読んでいる姿勢から何一つ変えることなく、
当たり前のようにイヤホンを右耳と左耳の両方から外した。
音漏れしているラジオのパーソナリティの声がやけに陽気に聞こえた。
「最近の若者について」比較的若者が語り合うことがメインのラジオは
かつては自分の好きな曲が流れそうであったり、同じような人種の人間が
投稿している番組とは違って、沙緒子にとっては
くだらない合コンの横で、なんだか自分が“惹かれそうな”会話をして“そうな”
男同士のテーブルの声に全力をかけてその内容を聞こうとしている感覚に似ていた。
「頭がいい」であろう男たちのバカ話。これが沙緒子にとっては求めているものだった。
結局は、自分は “まだ”そこに居れないということをわざわざ分かりに行くかのように
沙緒子は自分で停止ボタンを押して彼らとサヨナラした。
自分の部屋はシーンとしている。沙緒子は、今でこそ音楽を聞くが
何もしなかったら本当に何もかけないでもへっちゃらでいられる。
良い音楽を聴いてきた人間は、良い音楽のことがよくわかる、、、
ふとそんな「一流のものを嗜めば一流の人間になれる」だとか
上司の格言のようなものが頭によぎったが、
自分のipodに入っている貧弱な数字の曲数達にも目をかけてやる気分になれなかった。
自分の部屋に限っては無音の空間である中で、
別に、聞き耳を立てたかったわけでもないが、沙緒子はリビングにいる
ネネの様子を伺った。
ドサっと荷物がソファから落ちる音がした。
ソファは2人で気に入って購入したものだ。
煙草の灰やらワインで絶対汚れると確信していたので
合成皮革の黒いL字のソファを選んだ。
2人はよくその両端に座った。今では定位置になっている。
相方である沙緒子は座っていないが、ネネはいつも通り、
L字型の足が伸ばせるほうじゃないほうにあぐらをかいて座っていた。
メンソールの煙草を吸う音が聞こえた。
いつものネネだな。
沙緒子は安心したような、けれどもなんだか壁一枚をはさんで
集中して聞き耳を立てている自分が、存在まで消えたかのような
心もとない気持ちになった。
「おかえりー」
なぜそう言わなかったんだろう。
ネネの何が見たいんだろう。
滅多に見られない種類の銀色の美しい猫の住処を発見したように、
息を呑んで、その動作の一つ一つを想像した。
いつもと一緒のネネ。
芯があり、しなやかな強さがあるネネ。
沙緒子は目を閉じた。
自分とはまったく違う、うらやましくて仕方ないネネへの気持ちを沈めるように。
この小さな自分の部屋は、違う惑星との磁界の接点、
ネネへと繋がる秘密の小道の休憩地点かのように感じた。
そうしているうちに、沙緒子はまた再びシーラカンスとのはずまない会話の海底に
もぐっていった。