小・中学生時代

 

 中学1年の沖縄はアメリカの占領下にあった。祖国に復帰するのは中学2年の時である。一学期の成績は体育が4でその他は全部5であった。小学校の時には五段階評価ではなかったので自分の成績がどの程度のものなのかわからなかった。中学になってはじめて自分の成績がほかの人よりすぐれていることに気づいた。定期の学力試験では1年から3年まで連続1位であった。小学校5年のなかばから小学校6年の終わりごろまで那覇の小学校に転校していた。そのころ母の弟からかなりのお小遣いをもらったことがある。それで学研の学習百科事典を買った。友達がいなかったので外で遊ぶことはなく家でずっと百科事典を読んでいた。最初から最後まで何度も繰り返して読んだ。それが中学校の成績につながったのだと思う。小学校6年の時にアパートの四階のひさしから落ちた。さいわいたまたま下に大きな木がありそれが緩衝となってほとんど無傷であった。よく朝現場に行って見ると私が落ちたすぐそばに材木が積まれており、釘がところどころに飛び出ていた。この経験はその後の私の人生におおきな影響を与えた。私の人生は常にこの経験に支えられることになった。中学1年の英語の先生は琉球大学卒業で直接アメリカ人から英語を教わった。発音がとてもきれいで正確であった。最初にこの先生に英語を教わったのはその後の私の英語人生にとってとても貴重であった。国語の先生にも大きな影響を受けた。漢字は何度も書いて覚えるのだと言われた。私はほかの生徒と比べて単純で素直だったのでその通りにした。英語の単語もそのように覚えた。中学1年の夏休みに毒ガスが沖縄の知花弾薬庫から移送された。積出港は私の家から5キロほどのところであった。夏休みに移送されたのだ。万一毒ガスが漏れた場合学校の先生だけでは対応できない。夏休みに登校日はいっさいなかった。私はこの夏休みに英語の筆記体を懸命に覚えた。現在学校で筆記体を教えることはなくなった。アメリカでは日本より前にすでに学校で筆記体を教えてはいなかった。アメリカ人は不器用である。字がへたくそである。アメリカ人が書いた筆記体は実際にほとんど読むことができない。アメリカではすでにタイプライターが普及していたのである。現在の日本のワープロと同じなのである。したがって現在のアメリカ人は自分の祖母が昔に筆記体で書いた手紙を読むことが出来ないのだ。筆記体が読める人は尊敬されるのだ。これは現在日本において草書体で書いた字を読める人が尊敬されるのと同じ状況なのだ。私にとって筆記体は英単語を覚えるための道具となった。その後英単語だけではなくアルファベットを使うその他のヨーロッパの言語も筆記体で覚えた。ギリシャ語の単語を覚える時にはなんとなく違和感があった。ギリシャ語には筆記体がないのである。興味深いことにはアラビア語はすべて筆記体で書かれるということである。現在の日本の学生は英単語をどのように覚えているのだろうか。何か科学的な覚え方があるのだろうか。どのように科学が発達しても英単語を科学的に覚えることは不可能のように思える。なぜなら言語そのものが科学的ではないからだ。そもそも科学自体が数学という一つの言語で出来ている。科学は言語の上にあるのではなく科学自体が言語そのものなのだ。科学は永遠に言語を超えることは出来ないのである。英単語を書いて覚えるというのは本当に原始的な方法かもしれない。しかし言語そのものが原始的なものなのだ。原始的なものを覚えるのに原始的な方法を使うことがどうして不都合なのだろうか。そもそも「覚える」ということそのものが原始的なことなのではないのか。後年英語を教える立場になってつくづく気づいたことがある。英語は地道に努力してマスターするのではなく、かっこよく簡単にペラペラになりたいと本気で思っている生徒があまりにも多いということだ。中には勉強をしないで英語を習得したいと思っている生徒さえいた。そのような生徒たちに英単語は書いて覚えるものだと教え続けたのである。

 中学1年の担任は美術の先生であった。先生は画家であった。沖縄では学校の先生は非常に尊敬されていた。学校の先生を兼務する芸術家がたくさんいた。芥川賞を受賞した高校の先生もいた。その作家は定年まで高校の国語の先生であった。私の高校二年の倫理の先生は詩人であった。中学1年のその美術の先生はタバコの新しい銘柄のパッケージのデザインに公募して賞を受賞し採用された。占領下の沖縄には独自のタバコの専売公社があったのだ。その後先生は沖縄で有名な画家となり読谷村の美術館の館長となった。私が後年美術に興味を持つようになったのは先生の影響が非常に大きかった。先生の作品作成の手伝いをしたこともあった。初めていわゆる恋愛の経験をしたのも中学1年であった。彼女が私の家まで来て私の姉を通して告白をした。私は返事らしいことをしなかった。彼女の家に行ったこともある。結局いろいろとはぐらかしてただ彼女との仲を楽しんだ。私には親友と呼べる男の友達がいた。いつもいつも彼といっしょであった。あまりにも彼といっしょなのでみんなにホモホモと言われた。ようするにとても変わった生徒だったのである。

中学2年の担任からは私の人生において最も大きな影響を受けた。なにしろ先生は英語が非常によく出来た。当時の日本本土の先生とは違って英語で会話が出来たのである。名護英語学校というところでアメリカ人から直接英語を教わったのだ。発音がきわめてよかった。空手の師範でもあった。自宅に連れて行かれて空手を教わったこともある。人間は学生のころには何を教わっても損はないと思う。私はその後の人生においてなぜか武道に興味があった。「葉隠れ」は読んだし吉田松陰・三島由紀夫にもひかれた。後年新渡戸稲造の「武士道」を英語で読んだこともある。担任の先生は熱心に私に英語を教えてくれた。英語の弁論大会にも参加させてくれた。英検4級の試験も受けさせてくれた。先生はよく平良文太郎の話をしてくれた。琉球大学の元教授で琉歌を英訳した人である。私がその後おもろさうしを英訳するきっかけを与えたのである。歴史の先生はたいへん印象に残った。話がおもしろかった。教科書はまったく無視してひたすら歴史の話をしてくれた。私が歴史に興味を持ったのはこの先生のおかげだと思う。私は沖縄の歴史研究会にも入った。後年沖縄の文化・文学・歴史に関するウェブサイトを立ち上げる大きな契機になったと今では考えられる。

中学3年の担任には病気のことでいろいろとお世話になった。そのころ私は慢性腎炎をわずらっていたのである。先生は私の家に大きなスイカを持って見舞いに来てくれた。旦那さんが沖縄こどもの国の園長であった。私と一緒に同級生を子供の国に案内してくれた。中学3年の英語の先生は特別に印象がない。日本本土の英語の先生と同じであった。ふつうの英語の先生はこういうものなのだろう。こういう先生に出会うとたぶん英語の授業は退屈でおもしろくなくなるのだろうと思った。中学3年の時に選挙によって生徒会の副会長に選ばれた。人前で目立つということを学んだ。まわりの人たちにちやほやされることを学んだ。