Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 3-2 ルシファー・ライジング

[承前]


 さらに、《参宿》と共にオリオン座に属するのは隣の《嘴宿》。インド名はムリガシラス。月神ソーマの司る星で、その意味は《鹿の頭》。


 くるりと元のギリシャへと神話の天球儀を巡らせ、オリオンの名に戻ってみよう。

 オリオンの名前の意味は、一説《山に住む月の男》を意味するといわれる。
 この美男の狩人は不思議な存在。星空で牡牛座の昴の七星――プレアデスの七姉妹を追いかける彼は、火星の敵アンタレスをもつ蝎蠍座に追われている。
 天に昇ったその理由は蝎蠍の毒針に刺されたためで、この蝎蠍を放ったのはアルテミスともその双子の兄であり分身でもあるアポロンであったともいわれている。
 月と狩猟の処女神アルテミスの意志が、月の化身の猟人オリオンの命を断ったのだ。
 円盤投でアルテミスに挑戦しようとした不敬さから、或いはまた北の最極〔さいはて〕の土地ヒュペルボリアから来た乙女オピスを、またはアルテミス自身を暴力で犯そうとしたことから、彼は殺されねばならなかったのだという。


 鹿の頭のアクタイオーンのときのように、狩猟の女神はこの猟人をも殺した。
 だが、オリオンを星空に上げて神にしてやったのはアルテミスだったともいう。
 オリオンというのは月女神に捧げられた生贄、そしてこの犠牲によって彼は神になったのだ。


 ところでオリオンは時にアリオンとも呼ばれ、その名の頭文字は《А〔アルファ〕》なのか《Ω〔オメガ〕》なのかが判然としない。
 彼は最初〔アルファ〕であり最後〔オメガ〕なのだろうか。
 自分をそのように語ったイエス・キリストのように? 
 ポセイドンの息子だったというオリオンもまた、イエスのように水上歩行の不思議な力を持っていた。


 最初〔アルファ〕であり最後〔オメガ〕であるものは、寧ろ《無》であり、また《目》ではないだろうか。


 わたしはヘブライ語の二つのとても発音の似通った語(日本語では殆ど区別がつかない)のことを連想しているのだ――われながら驚くべきことだが――《無》を意味するアイン(Ain)と《目》を意味するアイン(Ayin)。後の方のアインの発音はそのままこの語の頭文字ヘブライ文字アインの読み方なのだという。そしてこのアインはよくローマ字の《O》で置換えられる。アインはそれ自体が《A〔エー〕》なのか《O〔オー〕》なのか、つまり《А〔アルファ〕》なのか《Ω〔オメガ〕》なのかが判然としない文字としてまさしくオリオン=アリオンの頭文字に相応しい。


 そこでこのアインを頭文字にして、ものはためし、オリオン(Ωριων)の名前をヘブライ風にしてみよう。


 ORYVN。


 おやおや、面白いこと。ちょうどあなたがアルテミスの異名アグラ(AGRA)を、ヘブライ語の魔法の神名アグラ(AGLA)に綴り変えるとき、日本語では発音の区別がつかない《ρ〔ロー〕》と《λ〔ラムダ〕》をひょいと入れ替えたのと同じ悪戯をこの語にも行ったら、エリオンOLYVNという綴りになる。


 これは《至高者》を意味する単語だ。


 『イザヤ書』の堕天使ルシファー墜落の典拠とされるあの箇所にこの語は現れている。
 暁の明星は野望を抱いてこう思った。


 《わたしは天に昇り、わたしの玉座を神の星々の上に置き、極北の集会の山に座って、密雲の頂きに上り、至高者〔エリオン〕のようになろう。》


  極北の集会の山とは、ヒュペルボリア(北の果ての国)のことのよう。
 ルシファーはまるでもう一人のオリオンのように、女神の純潔を、ヒュペルボリアの乙女の純潔を狙い、オリオンがアルテミスまたはアポロンに殺されるように殺される。
 だがオリオンは殺されることで逆に天の玉座に昇り、オリオン座になれたのだ。
 それもアルテミスの手によって。
 では、どうしてルシファーが落とされることがありえるだろう。
 エリオンの意味が寧ろオリオン座を意味するのだとすれば、ルシファーはそのそもそもの望みを達したのではないだろうか。
 ルシファーは至高者になったのではあるまいか。
 いや、ルシファーとは全くオリオンその人のことだったのではないだろうか。


 『イザヤ書』は告げる、暁の明星は《冥府に落とされ、穴の底に落とされ》たのだと。
 ところで『ヨハネ黙示録』の第一の災厄に関する記述をわたしは興味深く思い出すのだ。
 そう、そこにもルシファーの如く堕ちる星についての記述がある。

《第五の天使がラッパを吹き鳴らした。するとわたしは、ひとつの星が天から地に墜ちるのを見た。この星には底知れぬ穴を開く鍵が与えられた。その星が、底知れぬ穴を開くと、穴から大きな炉のような煙が立ちのぼり、太陽も空もこの穴の煙によって暗くなった。その煙のなかから飛蝗〔イナゴ〕が地上に出てきた。彼らには、地の蝎蠍〔さそり〕のもつような力が与えられた。》


 この不思議な毒イナゴは、額に神からつけられた徴をもたない人間だけを襲い、その猛毒の針で人間を五カ月の間苦しめる。殺しはしないが、その蠍蠍の毒の苦しみは、死の苦しみにまさるものだというのだ。


《その期間、人々は死を求めるが、どうしても見い出せず、死を願うが、死は彼らから逃げてゆく。》

 蝎蠍――この毒イナゴが、オリオンを殺し、殺した後でも夜空で彼を追いかけ続けるあの蝎蠍に譬えられていることに注意しよう。そしてオリオンを殺すために蝎蠍を放ったのはアルテミスともその双子の兄のアポロンとも言われていたことを思い出しておこう。黙示録の記述は続く。


《彼ら(毒イナゴ)は、底知れぬ処の天使を王に戴いている。彼の名はヘブライ語ではアバドンといい、ギリシャ語ではアポリュオンという。》

 寧ろアポリュオンとはアポロンのことではないだろうか。
 アポロンに捧げられたデルフォイの神託所は実際、大地の穴、女神の子宮であり、そこでアポロンは穴に棲む蛇の神として崇拝されていた。
 ルシファーが穴に墜ちるとは、大地の神秘を開く鍵を手にするということ、アポロンの処に赴くということだ。地獄の王になるとは地中の黒い太陽となって、一度は死に、しかし朝ともなれば再び太陽神として復活して天に昇るという秘儀を伝えるもの。
 ルシファーは確かにこうして太陽神アポロンとなったのだ。