[承前]

 

 レヴィナスが掲げるのは《汝殺すなかれ》という律法の言葉を遵守するパリサイ的ユダヤ教である。

 しかしラスコーリニコフは《汝殺すなかれ》の法の言葉の万人妥当性に「非凡人」という例外規定を設けてそれを思想的に侵犯する過激な異端者或いは背教者である。

 

 両者とも十字架による救いの欺瞞性と虚妄性を見抜き、それを斥け、ゴルゴダのイエスとは異なるメシアを要請する点においては共通している。

 しかし、この異なるメシア、異なる「神の子」イマヌエルは、殺人の問題に直面して深刻な自己分裂に陥る。 

 

 救世主がその聖なる目的を成就せんとして立ち上がろうとするときに悪しき障害となって不可避に立ち塞がる人間をどうするべきなのか。彼を殺さなければ善の実行は不可能である。

 従ってイマヌエルは彼を殺さざるを得ない。しかし殺人はそれ自体が大罪であり、悪である。

 イマヌエルは彼を殺してはならない。だがもしも彼を殺さなければイマヌエルが彼のために殺されてしまうのだとしたら、イマヌエルは一体どうしたらいいのか。

 

 殺すべきか殺さざるべきかという問題は単なる+と0の問題、有るか無いかの問題ではないような場合がある。それは殺すか殺されるかという+と-の問題、能動と受動あるいは加害と被害の問題になる場合がある。殺さないことが殺されることを意味するとき、殺人者を選ぶか犠牲者を選ぶかどちらか一方であって中間のゼロがないとき、問題は厄介である。

 《汝殺すなかれ》という掟の言葉によって殺された方がよいのか、それともその掟の言葉を破って人を殺してでも生きることが正しいのか。あなたがイマヌエルであるとしたらあなたはどうするだろうか。


 しかし問題はいずれにしても誰かがそこで死ぬことになるということにある。

 

 それは悪魔が神に勝利するということである。善なる存在イマヌエルはいずれにしても敗北することになる。殺人は成就する。救世主が人を殺すことは救世主の自己否定である。彼は生き延びるかもしれないが、もはや救世主ではありえない。ただの人殺しである。逆に救世主が人に殺されることは救世主の別の仕方の自己否定である。彼は救世主であり続け、人殺しにならないで済んだかもしれないが、殺人者に敗れ、悪を相手になさせてしまっている。救世主は存在することをやめる。やはり人殺しが生き残ることになる。

 イマヌエルは救世主であろうとすれば存在することができない。しかし逆に存在しようとすれば救世主であることができない。イマヌエルであることはイマヌエルがあることに一致しない。イマヌエルにおいて本質と実存、自己同一性と存在は両立不可能である。

 存在を保存するか本質を保存するかの二者択一がイマヌエルを引き裂く。しかしいずれにしても、そこで誰かが死ぬとき、イマヌエルもまた死ぬのである。イマヌエルは死に、殺人者が生き残るのである。

 

 イマヌエルは無垢のままでは存在不可能である。