ジャック・デリダ『哲学における最近の黙示録的語調について』の邦訳書(白井健三郎訳・朝日出版社)が出版されたのが1984年だったということには、それ自体に黙示録的な意味がある。

 それはエリック・ブレア(筆名ジョージ・オーウェル)が、恐怖の大王〈存在〉と残酷な神〈意識〉の「偉大な兄弟」の〈ドグラ・マグラ〉的二重拘束の作る不可視の黒き鉄の牢獄の卑しめられ、欺かれたコインロッカーベイビーズに万人が陥れられるという悪魔的陰謀がなされる年だと、1948年に出版予定だった本のタイトルによって名指している年だったからである。

 1984年4月4日、INGSOC思想警察の透明な存在の恐怖の影と「偉大な兄弟があなたを監視している」というパノプティックな言葉の鳴り響く残酷な意識の監獄から這い出ようとウィンストン・スミスの孤独な戦いが始まる。日記を書くこと。INGSOCに反する思想を語り得なくするために捏造された真理省のNEWSPEAKという新言語に奪われた自分の言葉と、二重思考に剥奪された自分の心を取り戻すために。

 無力な人間の尊厳を賭けた最後の抵抗だ。こんなことをして何になる? こんなものを誰が読む? 無意味な行為ではないか? ウィンストン・スミスは苦く自問する。それは『1984年』を書いていた聖ゲオルギウスorWELLたるエリック・ブレア自身の苦悶の言葉でもある。

 スコットランド東沿岸の孤島ジュラ島、恐竜のいないジュラシックパーク、それともネス湖の怪物の無気味な影が逆にはい回っていたのかもしれない。そんな寂しい所の農園に一人籠もり、肺病病みの痩躯の命を削りながら、エリック・ブレアはその黙示録的な書物を書いていた。

 「戦争は平和である。自由は屈従である。無知は力である」INGSOCの恐ろしい思想、自ら作ったグロテスクな悪夢。それに向かって、子供達の夢を守り、悪と永遠に戦う定めの「緑の男」聖ゲオルギウスの死ぬに死ねない定めの名前を自らに引き受けたエリック・ブレアは、自分の心を、自分の胸を穿つように書く。彼のスミス&ウェッソンである分身ウィンストンは『1984年』の中で書く。「偉大な兄弟を打倒せよ! 偉大な兄弟を打倒せよ! 偉大な兄弟を打倒せよ!」

 ひとりぼっちのハルマゲドン。鬼気迫る狂気の戦い。〈恐怖の大王〉と〈残酷な神〉の嘲笑だけが広がってゆく。それでも絶望的にウィンストン・スミスは、命短い作者の悲願を背負って38年先の未来で書く。

 『1984年』が書き始められたのは1946年の春だったという。
 ウィンストン・スミスは39歳、つまり彼は第二次世界大戦終結の年に生まれた男なのだ。
著者: ジョージ・オーウェル, 新庄 哲夫, George Orwell
タイトル: 1984年