さて、僕が離人症になったのは十四歳のときのことだ。この不思議で気味悪い精神状態は小さい時からしばしば体験していたが、しばらくたつと消えていったので、十四になるまでは、僕はまだ完全に離人症になっていたわけではない。或る決定的な事件があって、僕は元に戻れなくなってしまった。

 突然襲ってきた、「存在」という絶対的無意味の世界の洪水。サルトルの有名な作品『嘔吐』に出てくるのとそっくりな(いや、実際に体験してみるとその恐ろしさ、おぞましさは決してあんなものじゃない)、僕のすべてを打ちのめす実存の根源的恐怖の体験。そのとき、僕は「存在」に殺されてしまった。物凄いショックだった。急にあらゆるものがわからなくなり、あらゆるものが化け物に変わってしまった。「存在」という妖怪はあらゆるところに化けて出てきた。容赦もなく、そして、例外も無かった。家族も、そして鏡に映る自分の顔も、この体も、世界も、まったく見知らぬもの、見慣れぬもの、異質なもの、そして何より生きられぬものに変じてしまったのである。

 こうして、僕は死んだ。

 恐怖の嵐の一夜が過ぎ去った。翌日、僕は幽霊になってしまっていた。今度は、いたるところに〈虚無〉だけがあった。妖怪〈存在〉はいなくなったけれど、世界はもう二度と蘇らなかった。こうして、離人症が始まったのだ。

 この〈存在〉の恐怖は、離人症という〈意識〉の呪縛とはとりあえずは別である。この二つを決して混同するべきではない。〈存在〉という妖怪、この〈恐怖の大王〉(ノストラダムス)の出るところに、〈意識〉という〈残酷な神〉(イエイツ&萩尾望都)、この〈虚無〉の〈悪霊〉が共に出ることは決してありえないからである。

 だが、もちろん両者はそれにもかかわらず深く連関している。

 僕の場合、離人症の始まりが、このような〈存在〉という妖怪との恐怖の遭遇という形をとったのだが、必ずしも他の離人症が同じ始まり方をするのではないことはここで断っておいた方がいいかもしれない。僕のように離人症が初めから存在論的問題という宿命的に哲学的な様相で始まってしまう例はむしろ特異な方に属するようだ。このため、僕の離人症の話は非常にきつい。今現在、離人症に苦しんでいる人にはことによればまるで助けにならず、むしろ逆にその苦しみをもっとひどい状態に追い詰めることになってしまうかもしれないと心配だ。僕は、僕のとった過酷な道を、今現在離人症に苦しんでいる人が辿ることを決して奨めない。もし、心に思い当たることがある人はぜひ一刻も早く医者に行くことを奨める。間違っても哲学で治そうなどとは考えない方がいい。頼むからそんな悲しいことはしないでほしい。

 僕がこれを書いているのは現に今、離人症で苦しんでいる同胞への強い共感とは勿論切り離せるものではないが、決して、その病苦を癒したり慰めを与えたりするために書いているのではない。逆である。これを読む人は絶望的な気分を強いられることになるだろう。僕がこれを書いているのは戦うためである。これは僕の戦争なのだ。

※この文章は2004/11/26にはてなダイアリーに投稿した日記の文章を一部修正したものです。
 転載元:http://d.hatena.ne.jp/novalis666/20041126