存在論的差異([存在-存在者]の分節)によって別人を記述することは出来ない。
 別人は寧ろ非在論的差異([非在-非在者])を仮定することによって朧ろにその姿を看取することのできるような形而上学的存在である。

 自己や他者は存在者であるが、別人は非存在者である。
 しかし、それは単なる無ではないし、単なる非現実存在であるだけではないのだ。

 別人は必然的に非在するところのものである。
 単なる非存在者ではなくて存在不可能者である。
 これに対し自己や他者は存在者である以前に存在可能者である。

 自己や他者は現実に存在する。
 しかしそれは現実存在することが可能であるという可能存在としての背景をもっている。
 他面においてそれは現実存在しないことも可能であるような偶然的現実存在である。
 つまり偶然的現実存在である自己や他者は可能的には非存在者でもあり得るのだといっていい。

  *  *  *

 別人は自己でもなく他者でもない形而上学的存在である。
 厳密にいえば、別人は全く存在しないばかりか、そもそも存在することの有り得ない非存在者である。それは純粋に様相的にか有り得ない。
 しかしこの有り得ないものは無にも似て必然的なものである。

 無は存在しないし存在することなど有り得ないが、無くすことができないもの、欠かすことのできないものである。存在にとって無は無くてはならないものである。
 存在の〈それなくしては有り得ないもの(hou aneu)〉つまり必須条件として無は必然的である。

 存在は無を要請せざるを得ない。
 実体にとってそれなくしては有り得ないものはそれの本質的属性である。

 これを存在についていえば、存在の本質は無である。
 存在はそれ自体が存在することは無いのであれば、存在者としては無である。

 パルメニデスの命題「存在は存在する/非存在は存在しない」は間違っている。
 ハイデガーははっきりとは言わなかったが、彼の存在論的差異の主張は「むしろ無こそが存在するのだ」ということを言わんとするものだった。
 さもなければ永遠不滅の存在とは異なるものとしての有限な個別的存在者が存在することはできなかっただろう。
 存在では無くて存在者が存在するとは、存在者に於いて非在が存在し、逆に存在は存在し無くなっているという事実上のことをいっているのであるに過ぎない。

 存在が存在するなら、存在は全てを塞いでただそれだけが一なるものとして在るだけである。
 存在だけが存在するとき、それはそれ以外の何も(つまり「存在」ではない如何なる「存在者」も)存在させない圧迫的かつ独占的な力となって作用するだろう。

 このパラドックスの故にパルメニデスは生成変化と運動を否定し、一種の無世界論に陥った。
 パルメニデスの言うような存在としての存在者、つまりあれやこれやの既に何者かであるような個々の存在者ではなく、その存在が存在以外の何者でもないようなまさにその〈存在者〉、存在自体がそっくりそのまま存在者と化してしまった恐怖の球体は必ずやその独立自存することにおいて排他的である。それは天上天下唯我独尊というように自閉的である。

 それは己れ以外の如何なる他者の存在も許容し得ず、万物を破壊し去った完全虚無のうちにしか実は有り得ない。
 レヴィナスはこの点に着目してそれを世界外存在と呼び、この孤独な「世界なき実存」がどのように恐ろしい自己閉塞の様相にあるのかを描いて、「存在」や「同一性」の哲学を批判している。
 無論その批判は直接にはハイデガー及びサルトルに向けられたものである。

 レヴィナスにとってハイデガーの非人称的存在もサルトルの非人称的意識も要するにパルメニデスの思考と存在の同一性の枠組みを出るものではなかった。
 それは自己同一性を絶対視して自分以外の存在をつまり「他者」を非存在に還元する(つまり殺す)暴力の哲学であると見られている。
 彼はこれに対して「汝殺す勿れ」という「他者」の倫理学を説くが、その際に強調されるのが「他者」の個別性と多数性と単独性を表す「顔」である。
 パルメニデスの非人称的で孤独な存在には顔がない。それは球体であって当然つるつるののっぺらぼうである。この抽象的な怪物をレヴィナスはフランス語の非人称構文において「……がある」を意味するイリヤ(il y a)と名付けている。

 ところが、別人においては、この非人称のイリヤが「他者」のもとに化けて出る。
 別人、それは、他者に憑依した、いわば一者のごとくに存在〔ぞんざい〕なものなのだ。