「存在する」とは「無くは無い」ということである。
 存在は無の折り返し、虚無の襞である。

 存在は、
 「存在は存在する」(自己定立の積極性)
 「存在は存在である」(自己同定の肯定性)という
 パルメニデス的同一性の二重肯定の定立である以前に
 二重否定の断定であるという否定的裏面を基盤にしている。

 存在は断定である。断定は絶対的否定性である。
 それ故に、存在は肯定であるとはいえない。むしろ存在は否定である。

 存在は「非無」というべき無の異相であり、
 無の様相論的変異として考えることができる。
 存在は無の対等で対称的な対立者たりえない。
 存在と無の関係は非対称的な差異においてしか語り得ない。

 アリストテレスは「存在は様々な意味で語られる」
 (存在は多義的意味を有する)と言っている(『形而上学』第4巻第2章1003a)。
  これに対し、「無は様々な様相をとる」ということができるだろう。

 無は「無くは無い」として存在の様相にその様相を創造的に変じる。
 存在は無の様々な様相の内の一つでしかない。

 存在の意味的多義性に対して、無の様相的多元性を対置することができる。
 むしろ存在における多義的意味の変容は無の多元的様相の投げかける影に過ぎない。

 存在という出来事は、ハイデガーの語る通り、
 存在論的差異という解消しえない二元性を通して、
 存在者と存在の二つのアスペクトをとる。

 存在は、存在者という出来事と
 存在という出来事の二相に分極しつつ示される。
 そして存在者においても存在においても
 その多義的意味のゆらめきを看ることはできる。

 しかし、同一の存在という出来事を
 存在者と存在の二元の様相へと切り離しつつ
 そのように指し示す差異は無であるとしかいえない。

 無は存在論的差異という虚無的で冷酷な過越しの超越を通して、
 存在を、存在者を、通り過ぎつつ決定的に洗礼してしまっている。

 それは無が、存在と存在者の双方を
 無の上の存在及び無の上の存在者として無の上に定位しつつ
 無によって決定的に定義してしまっているということである。

 存在も存在者もそれを創造した無の過ぎ去りの絶対的な痕跡を、
 無の烙印を二度と決して消し去ることはできないのである。

 存在者は存在論的差異において、
 存在から見て、存在では無いものとして示される。
 存在は、存在者から見て、存在者では無いものとして示される。
 存在論的差異は存在と存在者を
 存在の自己同一性には還元できない自己分裂的異質性において示してしまう。

 存在者は存在の相対的無であり、存在は存在者の相対的無である。
 存在者は存在の相対的否定・相対的矛盾概念である相対的非存在である。
 他方、存在は存在者の相対的否定・相対的矛盾概念である相対的非存在者である。

 「存在は存在する」「非存在は存在しない」とパルメニデスは語ったが、
 しかし存在論的差異においては、
 存在者にあって非存在が存在し、存在にあって存在が存在していない。

 つまり存在論的差異にあっては
 パルメニデスの絶対的な自同律においていわれていた
 「存在は存在する」「非存在は存在しない」の主述が
 掛け違えになってしまっているのである。

 そこでは存在と非存在の間で〈交換〉が起こってしまっている。
 この〈交換〉は不可視で捉え難いが、しかし、恐らく必然的な出来事なのだ。

 ハイデガーは存在論的差異によって
 パルメニデスの存在の同一性の断定=命題の真理性を
 或る意味では覆しているといってよい。

 ライプニッツの根拠律(充足理由律)にかかわる、かの重要な問い
 「何故無が在るのではなくて寧ろ或るものがあるのか」に対して、
 ハイデガーは「いや、むしろ全く無こそが存在している」と答えることによって、
 ライプニッツの根拠律とパルメニデスの自同律とを一刀両断に切り捨てている。

 ハイデガーによる存在の自明性の転覆は
 きわめて意表を衝くきわどい角度からなされているので
 下手をすればそれを見逃してしまいかねない。

 しかしそれは物の見事に存在の論理の急所を、
 つまり存在の不可能性の核心を一撃している。

 ハイデガーによる虚無の洞察、
 寧ろ虚無によって虚無を見るというような
 この恐ろしく鋭く透明な観照、瞬視の真空の瞬間こそが重要なのだ。

 彼はいわば眼前を遮って立ち塞がる存在
 (Vorhandensein,Gegenstand)を
 あってもそこに無きが如き透明体として
 素通しに見通すレントゲン線のような目で見通している。