《私は在る。しかし、そのようなことは有り得ない。
  それゆえに奇蹟は起こる。》

 しかし、それは〈不可能なるが故にわれ在り〉ということではない。
 〈可能なるが故にわれ在り〉なのではない
 ということを言っているに過ぎない。

 私が単に可能であるだけでは、
 私は永遠に現実には存在しないだろう。
 だとすれば可能性というのはむしろ無能力なのだ。

 逆に、私が在るが故に私は存在可能なのだ。
 まず実在していなければ可能的ですらありえない。
 だとすれば実在は必然的である。

 しかしそれは何のためか――可能的であるためにであって、
 実在するためにではない。

 可能性にとって現実性は必然的である。
 ところが現実性にとって可能性は必然的ではない。

 しかしひとたび現実性があるなら、
 それは単に現実的であるのみならず可能的でもあるのだ。
 何故なら現実性は不可能であってはならないからである。

 現実性から不可能性の様相を除去する必要に我々は迫られる。
 単に在るだけではいけないのであって、
 それは必然的に可能的でもなければならない。
 さもなければ私は在り得ないことになり、
 事実と矛盾してしまうからである。

 不可能なものが存在してはならず、
 必ず可能なものだけが存在しなければならない。
 さもなければ現実性そのものに可能性が失われてしまう。

 とすれば思考にとって必然的に存在しなければ
 ならないのは可能性であって、現実性ではない。

 現実性は思考にとって直接的には必然的ではない。
 むしろ可能性を介して間接的に必然的であり、
 可能性を可能性ならしめるために目的論的に必然的であるに過ぎない。

 つまり現実性は思考にとって他のようでもありうるもの、
 偶然性でしかありえない。

 だがこの偶然性は可能性の集合のなかの一要素でしかありえない。
 偶然性は必然的に可能性なのである。

 思考は現実性を必然的に可能性の内部に位置付ける。
 つまり可能性に還元している。
 そこでその可能化された現実性が
 可能性の実現として再現実化されるときに、
 偶然性の様相に大きく依存している。

 偶然性は現実性だけに適用されると考えるのは誤りである。
 或る可能性が偶然に現実化しているとき、
 他の可能性は偶然に非現実化しているのだということができる。

 偶然性は現実性に常に関連しているが、
 それは可能性を偶然的現実性と偶然的非現実性に分類するために
 用いられているに過ぎない。

 これを逆にいえば、現実性は可能性を可能性ならしめながら
 その全体を波立たせて偶然性を生み出しているということになる。

 思考は現実性を偶然化することによって可能性に還元する。
 すると可能性もまた偶然化する。

  *  *  *

 《私は存在する。しかし、そんなことは有り得ない。
 それ故に、奇蹟は起こる。》

 自分の存在の自明視が崩れ去るとき、
 形而上学の驚異の閃光がほとばしる。

 存在することは不可能だ。
 しかしそれにもかかわらず私の存在は奇蹟的に生還する。

 これは不可能なことであるかもしれないが、
 恐るべきことに全く不合理でもなければ不条理でもありえない。

 不可能性の形而上学は完全に理性的なものなのである。
 しかしその帰結は完全に魔術的である。
 人間は大宇宙を自在に創造できる。
 現実は黙示録的現実性に変容を遂げる。これは存在の革命である。

 私が存在不可能であるということは、
 私は存在しなくなるということを全く意味しない。
 不可能性は、無や否定性とは厳密に区別されなければならない。

 〈ありえない〉は〈ない〉ではない。
 単に〈存在しない〉というだけの〈ない〉ではないばかりか、
 〈何かでない〉という意味の〈ない〉でもない。

 それ故に、私は私でありえなくても、
 私であることを止めるわけではない。

〈ありえない〉は〈ある〉と〈ない〉を区別するものではなく、
 むしろ〈ありうる〉と〈ある〉を区別している。

 不可能性としての不可能性のうちには
 如何なる意味でもそれ自体としての
 否定的なものも虚無的なものも見いだされはしない。