カントの物自体の概念を〈美的実体〉として捉え返すことを通じて、
 不可能性の美学は自らを批判的な美学として考究する。
 不可能性の美学は〈イマヌエル=カント〉的美学である。
 しかしそれは歴史的過去の個人としてのカントを意味するのではなく、
 カントのこの名が暗号する不思議な意味合いにおいて読まれねばならない。
 Immanuel Kantというよりは
 この名はImmanuel Can'tと綴られるべきものである。

 カントがイギリス系の移民で本来の姓がCantであるのを
 ドイツ風にKantに直したという話が伝わっている。
 カントの姓はそれ自体〈出来ない〉を
 つまり〈不可能性〉(impossibility)を意味する。

 〈不可能性〉とは〈Can't〉、〈出来ない〉ということである。
 しかし、この〈出来ない〉は
 単純な無能力や不能や欠陥を意味するものではない。
 〈できない〉にもかかわらず、そこで何かがなされる。何かが起こる。
 人は〈できない〉はずのことをすることがある。
 〈ありえない〉ようなことが起こることがある。

 この不思議な出来事のことを〈奇蹟〉
 (prodigium/miracle/Wunder)という。
 〈奇蹟〉とは不可能なことが可能になることではない。
 不可能なことがたんに起こってしまうことなのである。

 〈奇蹟〉とはこのような意味で不可能性の〈成就〉であり、
 優れた意味において〈出来事〉である。

 では、〈出来事〉とは何だろうか。
 それは、まずラテン語で〈casus,factum〉英語で〈event〉
 フランス語で〈événement〉ドイツ語で〈Ereignis〉という風に
 とりあえず〈翻訳〉的に一覧参照される。

 〈出来事〉とは必ずしも〈出来る事〉つまり可能事を意味してはいない。
 それもその筈、〈出来る/出来ない〉と〈出来事〉は
 本来無関係に切り離されているからだ。
 〈出来る/出来ない〉に関わりなく〈出来事〉は起こってしまう。
 起こってしまったあとで、それがどうして起こったのか原因が究明される。

 このとき〈出来事〉はそれが起こってしまったという
 事後的な完了形のなかで了解されている。
 
 〈出来事〉はそれ自体としては不可視なものだ。
 つまりそれが〈起きる〉ところを誰も目撃出来ないからである。
 にもかかわらず、出来事というものは目撃される。

 〈出来事〉の不思議さはまさにそこにある。
 まさにそれの起こるところ、
 〈生起〉するところ、
 〈出来〉するところを誰も見ないのに、
  白昼堂々、〈出来事〉というものは
 ドカーンとかガッチャーンとか
 多くの場合〈破壊〉的に起こって、
 人をそちらへと振り向かせる。
 驚愕があり注意があり刮目があり叫びがある。
 〈意識〉はそこへと集中する。
 〈出来事〉それ自体は決して〈現象〉することはない。
 そして〈出来事〉というものはすべて
 〈もはや二度と決してそれは起こらない〉という奇怪な性質をもっている。
 これを〈出来事〉の〈一回性〉という。

 〈出来事〉のドイツ語表現〈Ereigins〉という語は特筆に値する。
 後期ハイデガー存在論の重要概念を表す語として
 何かと問題になってきた神秘的な言葉だからである。

 〈Ereignis〉という用語は、
 わが国のハイデガー学者たちの美的感性を
 疑わしめる悪趣味としか思われないが、
 〈性起〉などというひどい訳語を当てられている。
 それは〈存在する〉という自分自身に到来する出来事を、
 存在の真理のふしぎな光にみちた啓示を存在者が受容しつつ
 その明るみに立つという事態を言い表そうとしている語である。

 このハイデガーの思考は詩的で大変に美しい。
 それだけはうべなっておいてよい。