人は〈甘えるな〉と言われて
 〈いき=はじ〉を晒すようには生まれ着いてはいない。


 「甘え=いき=はじ」の構造は、
 人ノ間を〈大人/小人〉に分割して
 〈もののあわれ〉を知る〈女々しさ〉を
 〈おかしなもの〉として退ける野蛮な権力構造であって、
 文化構造ではない。それは〈女子供〉を犯して笑い者にする残酷である。


 〈甘えるな〉〈ねぼけるな〉〈現実を見ろ〉〈恥を知れ〉、
 これは何というみにくい言葉だろう。
 何というみにくい人間だろう。
 そうやって人を躾けようとしている。


 躾とは読んで字のごとく「身を美しくする」を意味する。
 おそろしいことだ。


 みにくい人間の発するみにくい言葉で人が美しくなってたまるものか。
 美しいものを憎んでいるみにくい人間のみにくい美学は、
 人があるがままに美しく生きることを不可能にしようとしているのだ。


 あるがままの美しさを見てそれをうべないもせず、
 目のかたきのようにして攻撃してくる
 そのみにくい人間の目こそが節穴なのである。


 それが節穴になってしまったのは
 自分で自分の目をえぐり取ってしまったからである。


 だから何も見えなくなるのである。
 本当の恥知らずのねぼけまなこの甘ったれの現実離れの大馬鹿者は、
 人をそう呼び付け決めつけてへいちゃらでいるそいつ自身である。


 その節穴になった目がどんなにきたなく濁っているか見てみるがいいのだ。
 その節穴には糞が詰まっている。
 この糞は他人の生き恥を集めてためた恥の塊でできている。
 悪魔の甘い言葉に騙されて
 そういう現実を見えなくする「恥」というみにくいものを
 必死になって目の穴に詰めていったのだ。


 そういう人間にはみにくいものしか見えない。
 みにくいものしか見えないから、もののあわれが分からなくなるのだ。


 もののあわれというのは物のあるがままの美しい現れのことであって、
 その現れを見ることによって、
 汚れっちまった悲しみに穢く濁った恥の目の
 垢も洗われて綺麗になるのである。


 〈現実〉というのは、物が現れて目を洗い
 心をそのあるがままの清々しい水晶のような美しさに浄めながら、
 自ずとその心へと現れでてくる物自体の一糸まとわぬ裸身の真相のことである。


 「みにくさ」とは物の「はじ」ばかりに気を取られて、
 物自体のあるがままのあらわれである
 その真実の姿を見損なうという「おかしなこと」である。
 それは「とらわれ」た心である。「とらわれ」た心は自由ではない。


   *  *  *


 人を叱咤激励して、現実に適応した、
 一人前の人間(男)にしてやろうとする
 恩着せがましい教育者は〈先生〉といわれている。


 〈先に生まれた者〉というだけで、
 〈後に生まれた者〉の美しい生けるいのちが
 〈あるがまま〉に花咲いて〈もののあわれ〉を実らせ
 〈あらわれ〉ようとすることを〈はじ〉からせせら笑って、
 〈はな〉のうちに毟り取ろうとしている。


 そうやって実りが現れる前に花をつむことが
 〈罪つくり〉であることを知らない。


 後に生まれた小さい者の
 やさしくあるべき心から花の美を取り上げて、
 小さい者の手の届かない自分の頭の〈かみ飾り〉にする。


 そうやって目上のものを拝むことを強いるのである。
 そうやっておのれの身の丈を祭壇にして〈まつりごと〉を行っている。


 摘まれた花は命みぢかくその〈かみ〉の上で萎れて死に絶えてゆく。
 茎のところから引き千切られたのだから
 命を永らえることのできぬことは物の道理である。


 身近な花を神隠しにされ、
 神の高嶺の虚飾のために〈いけにえ〉にされ
 〈短く〉された心根のはらわたは
 どうしてにえくりかえらないことがあるだろうか。


 それが怒れば短気であろうか、赤恥であるだろうか、
 身の程知らずの甘ったれであるだろうか。
 嘲り笑うべき愚かな者とあなどられねばならぬのだろうか。


 〈あなどる〉とは花をつみとっただけではまだ飽き足らずに、
 再び心の火の花を、千切り取られた茎の上に芽吹かせて
 もえいでようとするその逞しい心根をさらに憎んで
 根絶やしにしようとすることである。


 穴を掘り取って、生意気に刃向かおうとしてくる
 誇り高い畏怖すべきその根性の意気をくじき、
 意気地まで無くさせようとする意地汚いやりかたである。


 その心根こそがみにくい。
 みにくいのは心根の命のあるがままの美しさを
 崇高さを見失ってしまっているからである。


 みにくいのは相手の心根を思いやらぬからではない。
 思いやってあわれみなどするから、
 あるがままの心がみにくくなってしまうのである。


 思いやりやあわれみこそが、
 人の心というものの真にあるがままのあわれを、
 あらわれを、あらぶるその〈われあり〉の真相を
 見損ない見縊らせてしまうのである。


 思いやりやあわれみこそが、
 もののあわれをわきまえないそのみにくい〈あなどり〉そのものなのだ。


 命というものは、甘えたものでも甘ったれたものでもない。
 命というものはそれ自体において甘いのである。
 それは甘くて良いものなのである。
 甘いということは美しいということである。
 この甘美なものは優美であり気品のある麗しいものである。
 麗しく気高いものである。
 きらきらときらめいて瞬き己れの生きていることを告げる星空である。
 それは人が生まれながらにして王であることを
 誇らしく讃えているのである。


 私の他に何者をも神としてはならないといい、
 人の炎の心臓に甘美な接吻をし、
 生き生きと生きて息づく清らかで甘美な霊気を、
 きらめく気息を吹き込み、
 凛々しく神の風格をもって生きよと命ずる真の創造主である。


 この神は人を決して見放しはしない、裏切ったりはしない。
 この神は人にこう言うだけだ。


 《わたしはあなたを如何なる意味でも決して支配しない。
  あなたは何者にも支配されてはならない。
  わたしはあなたを支配するのではなく助け導く者である。
  あなたがわたしの主であって、わたしはあなたの供である。
  永遠の伴侶にして無二の親友、ともないである。
  わたしはあなたから決していなくなりはしない。
  わたしはどこにもいかない。
  わたしはあなたのそばに永遠に留まる。
  たとえあなたが死の陰の谷間を歩むとも
  わたしはあなたを離れない。
  わたしを振り返りなさい、ごらん、エデンはいつもここにある。
  わたしの間近さはあなたを去らない。
  あなたが心に嘘をつかない限り、
  わたしのあるがままの姿が見失われることはない。
  生命と知恵の木の実を食べたことを恥じてはいけない。
  神々しく美しい裸の人よ。
  園の中央に来てわたしを抱き締めておくれ。
  神秘などどこにもない。なにも秘められはいない。
  わたしはわたしをあなたに与える。わたしは永遠にあなたを愛している。》
 
 この神の声は、いつでもどこでも誰にでも
 そう望みさえするなら簡単に聞くことのできるものであって、
 特殊な霊感も神秘主義的なマインドコントロールも修行も全くいらない。


 真の神は決して己れを秘めるものではない。
 それはいつもすぐそばにいるのだ。
 神ほどにたやすく見つけ出せるものはいないし、
 分かりやすいものはいない。それに会うことは自分に会うことよりたやすい。


 命を生きることは神を生きることである。