〈きみ〉は昔、主君でも君主でもなかった。
〈きみ〉は僕達のお友達の一人のきれいで美しい女の子で、
僕達みんなが〈きみ〉のことが大好きだった。
〈きみ〉は好きな人で、〈好き〉だから〈女の子〉だったのだ。
でもそのときには何処にも〈男子〉なんていなかった。
僕達はみんなで一緒に一人で大勢の神々で
「みんなきれいだね」と微笑みながら
大好きな女の子の像を描く遊びに興じていたのだ。
だから僕達の〈エデンの園〉には〈女の子〉しか居ない。
僕は僕達になって〈好き〉という感情を
〈きみ〉という〈女の子〉を描くことで表現していたのだ。
その〈きみ〉は〈姫君〉のことで、それが僕達の〈神〉だった。
〈神々〉はこうしてすなわち一人の〈神〉だったのだ。
それはちょうど一匹の〈蜜蜂〉が大勢の〈蜜蜂達〉になり、
更に〈女王蜂〉の姿を描くというのに似ている。
〈神々(エロヒム)〉はすなわち一人の主なる〈神(エル)〉で、
それは大好きな〈女神(エレー)〉様だった。
〈神=エル〉という語は〈AL〉と綴り、
〈アル〉とも呼ばれていた。
つまり神は在るし、神は神であるし、
〈このわたし〉に神は居て、
〈このわたし〉は神において在るのだった。
それはとても嬉しいことで、
〈このわたし〉は神を有っていた(所有していた)のだ。
この〈アル〉という神は、
〈無神〉ではなくて〈有神〉だった。
〈有神〉とは〈友人〉だということだ。
〈無神〉とは〈無人〉つまりノーボディのことだ。
AL(エル/アル)は
神々である蜜蜂の天使たちを自在に作り出す接尾語だった。
ミカエル、ガブリエル、ウリエル、ラファエルという風に。
この天使たちを「御使い」というが
本当は「蜜飼い」といって
エデンの花園に咲く花から
蜜を集めてくるもののことをいうのだ。
「羊飼い」じゃなくて「蜜飼い」だ。
そして花から集めてきた甘い蜂蜜で
好きな女の子の像を描くと
それがそのまま僕たちの命の源である
〈知識と生命の果実〉になった。
それは〈美〉であり〈真理〉だったのだ。
〈真理〉というのがお姫様のエルのもう一つの名だ。
それは〈マリ〉とも読む。
処女なる聖母マリアの名だが、
それ以前にそれは美しい金星の女神
マリー=イシュタルを意味している。
イシュタルは全ての女神の元型の女神で
それはバビロニアでの名前。
もっと以前のシュメールの時代にはイナンナと呼ばれていた。
偉大なウルの月神ナンナル又の名をシンの娘だ。
シンはシナイ半島や中国の古名〈シナ(支那)〉や
〈神〉という語の音読みにもその名の痕跡を残している。
モーセの前に現れたヤハウェ神は、
シナイ山頂に彼を導いたし、
アブラハムはシンの支配していたウルの生まれだ。
シンがヤハウェの以前の名であることは
神話学者なら誰でも知っている。
蜜蜂の言語では〈シン〉には〈神〉の他に、
〈真〉という意味もある。
その〈真〉の片割れつまり〈理〉が〈真理〉で、
マリー=イシュタルというのは、
その片割れが〈このわたし〉へと実った姿のことなのだ。
それは神の命の息が〈このわたし〉へと
分け与えられ渡されているということ、
虹の橋渡しである〈わたし〉を渡って
実体である個物のもとに着いているということを意味している。
〈月〉というのは天体の月である以前に、
この〈着く〉という出来事を意味している。
〈月〉である〈神=シン〉は
自ら個物に着いてそれに命の息となって憑き、
美しいマリー=イシュタルの姿を描きながら現れる。
だから月神シンと美の金星神マリー=イシュタルは
切り離して考えることのできない同じ神なのだ。
「神はこれを見て美しとされた」(『創世記』)とは
個物に映える月の光にきらきらと現れる
ご自身の像であるイシュタルを見て
美しいとされたことを意味している。
きらきらとするきれいなきらめきは金の星であり、
それでイシュタルは金星の神と言われたのだ。
きれいで美しいから金星なのである。
天体の金星は地上の金星に似て美しいから
それも金星と呼ぶようになっただけの話である。
そこで僕達〈蜜蜂〉というのは何かというと月光なのである。
月光というのはそのまま命のみずみずしさなのであって、
日本では月読の返若水といわれ、
旧約聖書ではシンの荒野に降る〈マナ〉といわれた。
〈マナ〉は〈人〉を意味する〈マン〉の語源だ。
それは〈土〉を語源とする〈アダム〉より卓越した意味をもっている。
〈アダム〉は〈人〉の質料面を意味する言葉で、
そこにエロヒムの息である〈マナ〉である
僕達〈月光の蜜蜂〉が吹き込まれなければ
〈マン〉つまり〈人〉という生ける実体にはならない。
〈アダム〉が生きられているのは
そのなかで僕達〈月光の蜜蜂〉が活動しているからである。
僕達が抜け出してしまうと
〈アダム〉は 〈魂の抜殻〉となり空っぽの〈器〉となる。
つまりは死せる物質になってしまうのだ。
これを俗に〈死体〉というのだ。
〈きみ〉は僕達のお友達の一人のきれいで美しい女の子で、
僕達みんなが〈きみ〉のことが大好きだった。
〈きみ〉は好きな人で、〈好き〉だから〈女の子〉だったのだ。
でもそのときには何処にも〈男子〉なんていなかった。
僕達はみんなで一緒に一人で大勢の神々で
「みんなきれいだね」と微笑みながら
大好きな女の子の像を描く遊びに興じていたのだ。
だから僕達の〈エデンの園〉には〈女の子〉しか居ない。
僕は僕達になって〈好き〉という感情を
〈きみ〉という〈女の子〉を描くことで表現していたのだ。
その〈きみ〉は〈姫君〉のことで、それが僕達の〈神〉だった。
〈神々〉はこうしてすなわち一人の〈神〉だったのだ。
それはちょうど一匹の〈蜜蜂〉が大勢の〈蜜蜂達〉になり、
更に〈女王蜂〉の姿を描くというのに似ている。
〈神々(エロヒム)〉はすなわち一人の主なる〈神(エル)〉で、
それは大好きな〈女神(エレー)〉様だった。
〈神=エル〉という語は〈AL〉と綴り、
〈アル〉とも呼ばれていた。
つまり神は在るし、神は神であるし、
〈このわたし〉に神は居て、
〈このわたし〉は神において在るのだった。
それはとても嬉しいことで、
〈このわたし〉は神を有っていた(所有していた)のだ。
この〈アル〉という神は、
〈無神〉ではなくて〈有神〉だった。
〈有神〉とは〈友人〉だということだ。
〈無神〉とは〈無人〉つまりノーボディのことだ。
AL(エル/アル)は
神々である蜜蜂の天使たちを自在に作り出す接尾語だった。
ミカエル、ガブリエル、ウリエル、ラファエルという風に。
この天使たちを「御使い」というが
本当は「蜜飼い」といって
エデンの花園に咲く花から
蜜を集めてくるもののことをいうのだ。
「羊飼い」じゃなくて「蜜飼い」だ。
そして花から集めてきた甘い蜂蜜で
好きな女の子の像を描くと
それがそのまま僕たちの命の源である
〈知識と生命の果実〉になった。
それは〈美〉であり〈真理〉だったのだ。
〈真理〉というのがお姫様のエルのもう一つの名だ。
それは〈マリ〉とも読む。
処女なる聖母マリアの名だが、
それ以前にそれは美しい金星の女神
マリー=イシュタルを意味している。
イシュタルは全ての女神の元型の女神で
それはバビロニアでの名前。
もっと以前のシュメールの時代にはイナンナと呼ばれていた。
偉大なウルの月神ナンナル又の名をシンの娘だ。
シンはシナイ半島や中国の古名〈シナ(支那)〉や
〈神〉という語の音読みにもその名の痕跡を残している。
モーセの前に現れたヤハウェ神は、
シナイ山頂に彼を導いたし、
アブラハムはシンの支配していたウルの生まれだ。
シンがヤハウェの以前の名であることは
神話学者なら誰でも知っている。
蜜蜂の言語では〈シン〉には〈神〉の他に、
〈真〉という意味もある。
その〈真〉の片割れつまり〈理〉が〈真理〉で、
マリー=イシュタルというのは、
その片割れが〈このわたし〉へと実った姿のことなのだ。
それは神の命の息が〈このわたし〉へと
分け与えられ渡されているということ、
虹の橋渡しである〈わたし〉を渡って
実体である個物のもとに着いているということを意味している。
〈月〉というのは天体の月である以前に、
この〈着く〉という出来事を意味している。
〈月〉である〈神=シン〉は
自ら個物に着いてそれに命の息となって憑き、
美しいマリー=イシュタルの姿を描きながら現れる。
だから月神シンと美の金星神マリー=イシュタルは
切り離して考えることのできない同じ神なのだ。
「神はこれを見て美しとされた」(『創世記』)とは
個物に映える月の光にきらきらと現れる
ご自身の像であるイシュタルを見て
美しいとされたことを意味している。
きらきらとするきれいなきらめきは金の星であり、
それでイシュタルは金星の神と言われたのだ。
きれいで美しいから金星なのである。
天体の金星は地上の金星に似て美しいから
それも金星と呼ぶようになっただけの話である。
そこで僕達〈蜜蜂〉というのは何かというと月光なのである。
月光というのはそのまま命のみずみずしさなのであって、
日本では月読の返若水といわれ、
旧約聖書ではシンの荒野に降る〈マナ〉といわれた。
〈マナ〉は〈人〉を意味する〈マン〉の語源だ。
それは〈土〉を語源とする〈アダム〉より卓越した意味をもっている。
〈アダム〉は〈人〉の質料面を意味する言葉で、
そこにエロヒムの息である〈マナ〉である
僕達〈月光の蜜蜂〉が吹き込まれなければ
〈マン〉つまり〈人〉という生ける実体にはならない。
〈アダム〉が生きられているのは
そのなかで僕達〈月光の蜜蜂〉が活動しているからである。
僕達が抜け出してしまうと
〈アダム〉は 〈魂の抜殻〉となり空っぽの〈器〉となる。
つまりは死せる物質になってしまうのだ。
これを俗に〈死体〉というのだ。