Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 1-3 ねむりびと

 

[承前]

 

 森アキラには長く会っていなかった。
 黒革のジャンパーに顎髭というその姿は別人のようだった。
 痩せて老け込み、陰惨な印象があった。
 背後から声をかけられなかったら、気付かずに見過ごしていたことだろう。

 嫌な奴に遭ったな、そう思ったが、相手の方でも再会を喜ぶ気にはなれない様子だった。

 ――あの女、死んじまったよ。

 暗く嗤うように森は告げた。装われた嗤い。黄ばんだ瞳に陰険で卑屈な憎しみがあった。
 おまえたちのことは知ってるぞ。その見透かしたような態度はそう物語っていた。

 暫く物が言えなかった。驚きがなかった訳ではない。
 だが、意外というのとも少し違っていた。
 森が現れたとき、その姿のなかに既にその言葉を予感し、待ち受けていたのかもしれない。

 女はもう半年前に眠るように死んでいた。
 睡眠薬自殺。遺書は発見されず。余りにも遅れて届けられた古新聞の記事のような訃報。
 その報せは既に黄ばんでいた。
 おまえは今更何を言いにきたのだと、森への微かな怒りを感じた。

 女の死には悲しみはなかった。
 そうだ、既に知っていた、彼女は死ぬと。
 彼女は死ななければならなかったのだ、と。既に――ではいつ? 
 あのときに――傍らに背中を向け、死んだように殆ど寝息も立てず、静かに、余りにも静かに眠って、こちらに青白い裸の肩だけを突き出していた女を見たとき、女はもう死んでいたのだ。一年以上も前に。もう分かっていた。死は、もうそのときに決まっていたこと。

 すべての美しいものは眠るのだ。
 見るがいい、おまえのエンノイアもそこにまた、彼女の運命と共に横臥っていた。
 既に俺は歌った筈、その黎明にねむりびとをその水辺に還す葬送の祈りを――。

 時は六月の或る真夜中に、
 幽玄の月の光に照らされて私は立つ。
 ……

 おお輝かしい女性よ! それは正しいことか-
 この窓が夜に開かれてあるのは?
 ……
 形ない風は、魔術師のむれ、
 あなたの部屋をひらひらと往き復る、
 そして天蓋の帳を、そんなにも不意に-
 そんなにも恐ろしげに-揺り動かす、
 あなたのまどろむ魂がその下に隠れている
 縁飾りのある閉じられた目蓋の上を、
 そのために床をかすめ壁に流れ、
 帳の影は亡霊のように浮かびまた沈む!
 おおいとしい女性よ! あなたは怖くないのか?
 何故に、また何ごとを、あなたはここに夢みるのか?
 きっとあなたは来たのだろう、遠い海原を越えて、
 これらの苑の樹々にとって一つの奇蹟と見えるために!
 異様である、あなたの青白い顔色は! あなたの装いは!
 異様である、何にもまして、あなたの丈長い髪は、
 そしてこのすべての荘厳な静けさは!

 女性は眠る! おお彼女の眠りの
 長く続き、尚もさらに深くあれ!
 天はその神聖な奥処〔おくか〕に彼女を守れ!
 この部屋がより神々しいものに変り、
 この臥床〔ふしど〕がより憂鬱なものに変って、
 彼女が永遠にその眼を開くことなく
 そこに横たわることを、私は神に祈る、
 屍衣をまとった蒼ざめた幽霊たちのさ迷う間!
 わが愛するひと、彼女は眠る! おお彼女の眠りの
 覚めることなく、尚もさらに深くあれ!

   (エドガー・アラン・ポオ『眠る女』(原題《The Sleeper》)
    福永武彦訳(東京創元社 創元推理文庫『ポオ 詩と詩論』1979))


 弔いは既にそのまだ青冥い未明に済ましてしまった。
 その後半年、誰が生きていたというのだ。それこそが亡霊だ。
 彼女などいなかった。すべては幻、自殺も葬儀も埋葬も泣き暮れたであろう遺族の涙も、その青い幻夜のねむりびとの孕んだ微かで虚ろな夢の影に過ぎない。
 彼女は自分がもう死んでいることに気付き、儚い命の茶番劇に自ら幕を引いただけのこと。
 もう悲しむべきいわれなど何処にも残ってなどいない。

 彼女が言った通り、彼女は死ななければならなかっただけのことだ。
 そして俺はその死に不意をついて起こされ、彼女の秘密の臨終に、彼女が自分自身に届き、麗しい球体となった最期の奇蹟に立ち合わされたのだ。
 彼女の言葉は既に成就していた。
 《わたしは死ななければならない、わたしじしんになるために》。

 彼女の愛したマルク・アランの詩の通りに夢は不可思議な果実を結んでいた。
 厳粛な麗しい青い肌の果実を。それは美しかった。
 だから、俺はその神秘の証しを胸に遠く引き籠っていなければならなかった。

 エンノイアよ、きみは美しかった。その他に何を言うことができるだろう。
 きみの作り出した死の完璧な美しさを、誰も、卑俗な涙や嘆きや悼みの言葉で黷すことはできないだろう。
 永遠に眠れ、エンノイアよ。
 きみの淨らかな死のなかに、永遠に蒼く凍ってあれ。
 ぼくはひとりきみの死を肯なおう。
 きみの死には言葉なき賞賛とその崇高さへの敬礼だけが相応しい。

 ――そう……死んだか。

 ぽつりとそれだけ言った。

 ――ただ、それだけか?

 森の顔面が岩のように固くなり、黒っぽい怒りに僵〔こわば〕っていた。

 ――他には何も、言うことはないのか……!

 少し黙って森を凝視めた。《理解できない。この冷血漢め》といわんばかりの黙した抗議に震える顔。
 恐らくこちらは仮面のように無表情だったのだろう。
 だが、おまえは俺に何を期待していたのだ。胸のなかに怒りが黒い氷塊のように僵った。

 ガイ・デ・ヴィアよ、涙はないのか? 今ここで泣け、さもなくば二度と泣くなとこの俺に詰め寄ろうというのか。女の眠る棺を指して、この俺に遅ればせの弔鐘を鳴らし、哀悼の意を表してみせろというのか。何という大袈裟な悲しみようだ! 恥知らずめ。

 《かくも若く死んだ故に二度の死を死んだともいえる彼女のための挽歌》を歌えとこの俺に迫るというのか。否、どんな挽歌も歌うものか。《ただ古代の日々の頌歌をたい、彼女の飛び行くのを天使と共に助けよう》(注1)

 森から顔を逸らし、女のための手向けの言葉を、遅ればせの弔辞をあらぬ方に言う。考えてみれば、それは精一杯の捨台詞だ。

 ――《パルマケイアは彼女の戯れにより、ひとつの処女の純潔とひとつの損なわれていない内部とを死に追い遣ったのだ》(注2)。

 ――おい、何だ、それは?

 森の咎める声があった。言葉を聞き咎めただけではなく、態度をも見咎めたのは明瞭だ。


【脚注】
(注1)エドガー・アラン・ポオ『レノア』(原題《Lenore》)福永武彦訳 (東京創元社 創元推理 文庫『ポオ 詩と詩論』一九七九)
(注2)ジャック・デリダ『プラトンのパルマケイア』高橋允昭訳を元に一部改変