慨して出来事は人の身に起こる。

 勿論、物が壊れる場合などのように物の身に起こることもある。
 しかし、その場合でも、それは人の身に起こる出来事であるといえる。

 物が壊れるのを人は目撃する。
 目撃という仕方でやはり出来事は
 その人の身に降りかかってくる出来事であるのだといえる。

 自分に関係のある出来事、
 自分には関係のない出来事、
 自分に関係があるのかないのかよくわからない出来事、
 それが出来事であるのかどうかも定かならぬ出来事、
 些細な出来事、重大な社会的な出来事、極私的な出来事、
 人の人生にはさまざまな出来事が起こり、彼をよぎる。

 更に誕生という出来事、そして死という出来事もある。
 死ぬ場合、人は物のように破壊される。

 人の人生は様々な出来事によって出来ているといえる。
 生きている、存在している、それすらも出来事である。

 出来事はさまざまな様相で人に降りかかり、
 またさまざまな様相で人をそれに巻き添えにする。

 人は、というより〈この私〉という主体は、
 そのさまざまな出来事が起こるための
 舞台=場(トポス)であるといってよい。

 そして再び、死ぬ場合、
 舞台の上で舞台が壊れるという出来事が起こるのだといえるだろう。

 この意味において、あらゆる出来事はわが身に起こる。
 そしてまたこの意味において、
 出来事の横断と出来と通過が起こるトポスである〈この私〉は、
 さまざまな様相の出来事の出来を
 場としてあるいは基盤として支えながら
 そのさまざまなインパクトを蒙りつつ〈この私〉へと具体化してゆく。

 あらゆるさまざまな様相での出来事の出来は
 それと逆接する裏面において、
 〈この私〉の〈この私〉への
 やはりさまざまな様相での出来なのだということができる。

 換言すれば、出来事を通して
 〈この私〉は〈この私〉にさまざまな様相で浮かび上がるのだといっていい。

 更に換言すれば、
 あらゆる出来事はそれが起こるためのトポスとしての〈この私〉に、
 〈この私〉という別の、裏面的・背接的な出来事が起こる
 または起きるためのトポスでもあるのだといえる。

 〈この私〉は単にこの私であるだけではなくて、
 それをトポスとして起こる〈この私〉という出来事でもある。

 出来事としての〈この私〉はさまざまな様相で、
 さまざまな出来事と共にそれを通して
 〈この私〉=トポスに到来し、
 〈この私〉の身に起こって〈この私〉の身を起こさせる。

 出来事によって、〈この私〉に〈この私〉が起こるのだ。

 〈この私〉に〈この私〉が起こる。
 この出来事の裏側に回転する別の出来事は、
 自己同一性(私は私である)とは全く別の次元の問題であり、
 それと混同するべきではない。

 またヘーゲル的な意識の自己反省=反照、
 私の私への再帰的自己同一化の運動をわたしは語ろうとしているのではない。

 「私は私である」(自己同一性)や
 「私は私になる」(自己同一化)というのとは違う事態、
 寧ろそれらには還元不可能であり、
 またしかしそれにも拘わらずそれらに常に還元されてしまうために、
 その違いが見失われ、消去されてしまいやすい
 異なる事態を見据えようとわたしは努めているのである。

 寧ろわたしが語りたいのは
 「私である」(同定)のでも「私になる」(生成)のでもないような私、
 自己同定=存在の論理(存在論または認識論)にも
 自己生成=実現の論理(弁証法)にも回収出来ず、
 却ってそこから食み出てしまうような、
 どのような「私」にも還元不可能な「この私」のことである。

 この〈この私〉は、しかし、別に自己同一性を破壊したり
 分裂させたりするものでは必ずしもない(死ぬという場合を別にすれば)。

 例えば精神病理学や文学がよく問題にするような
 自我の分裂や二重(または多重)人格や分身や
 二重身や人格崩壊というような異常心理や
 実存的苦悩のことをわたしは語ろうとしているのではない。

 しかし、かといって『探究II』の柄谷行人のように
 それを「この私」の単独性とは違う
 下らない特殊性(特殊な「私」の在り方)に過ぎないとして
 却下的に切り捨てているのでもない。

 同様の規準に従って柄谷は
 無気味なものの他者性(「異者」といわれるもの)を
 「他者」から却下的に切り落としてしまう。
 わたしはそのような切断=除去は行わない。

 柄谷はこのように単独性と特殊性を区別するとき、
 実は彼が批判している筈の一般者の視点に立っている
 (無論そうせざるを得ないのは分かる)。
 そのことによって彼は単独性と特殊性をいわば「分類」してしまっている。

 或るものを
 クラス(類・共同性・一般)の中に含まれる
 メンバー(種・特殊)と看做すか、それとも
 それには内属=還元不可能な
 外部的・単独的個(唯一・単独)と看做すかという
 判断規準に従って、差別づけることは、
 ものを分類可能なもの(内)と
 分類不可能なもの(外)に分類することであるに過ぎない。

 ものをゴミバコに捨てることだって「分類」の一種なのだ。
 いや、それこそが普通の所謂「分類」を
 可能ならしめる可能性の中心なのである。

 わたしが問題にしようとする〈この私〉は
 柄谷が『探究II』で問題にした
 単独的な〈この私〉の問題と交錯するものである。
 またそれは別に殊更言い立てるほど異なる〈この私〉ではないともいえる。
 或る意味ではそれは殆ど同一のものですらある。

 だが、それにもかかわらず、
 わたしと柄谷の〈この私〉は
 どこかで決定的にすれ違ってしまう異相にある概念なのだ。

 柄谷とわたしとは差異の切り方が違う。
 そして恐らく柄谷のいうような単独的な〈この私〉もまた、
 わたしが考えようとしている〈この私〉を
 自己同一性や自己生成の再起的円環と同じように回収=消去してしまう、
 或る意味では一番厄介ではた迷惑な
 類同的代理物になりかねない代物なのである。

 しかしそれはまたわたしがいう〈この私〉が
 柄谷のいう単独的〈この私〉にも回収出来ず、
 却ってそこから食み出してしまうようなものであることを意味する。

 柄谷のいう〈この私〉は既に存在してしまっている存在者の様相、
 或る意味では事物のような様相において見いだされているといっていい。
 それはちょうどわたしの文脈でいえば
 トポスとしての〈この私〉の方にほぼ該当している。

 しかしむしろわたしが考察したいのは出来事としての〈この私〉の方である。
 〈この私〉に〈この私〉が起こるという出来事において、
 寧ろ重点的な主題となるのは、或る種のパトスとしての私の問題なのだ。

 柄谷は〈この私〉の問題を考察するとき、
 クリプキやライプニッツや九鬼周造を引きながら
 それを形而上学的な様相(modality)の問題に引張っていっている。
 そして彼はそれを関係の外部性(偶然性)の方向において解明してゆく。

 わたしも様相をやはり問題にすることになるが、
 展開の方向はそれとはズレたところにもってゆくつもりである。
 わたしはそれを不可能性という、
 偶然性とは別の様相概念に引っ張ってゆくのである。