〈別人〉は或る意味ではレヴィナスの〈第三の人間〉に近接する概念である。
しかし、レヴィナスはこの〈第三の人間〉ないし第三人称の〈彼性〉の上に
(このような言い方はレヴィナスに対して不当であるが敢えて背教的に言う)
倫理を作り上げようとしている。わたしたちはそれが有害であると断定する。

とりわけ我が国においては
レヴィナスの倫理の形而上学は善を目指す運動でありえるどころか、
むしろ邪悪を生み出す。
この問題は一見ローカルである。
しかし実はローカルさを越えて告発的である。
わたしたちはレヴィナスの倫理学に善い可能性を全く認めることができない。
寧ろそれは或る転換を遂げなければ
救いようもないパラドクスによって
その目的の正反対物になりはてる危険性をもつ。
だから〈別人〉の問題提起はレヴィナスへの疑問符である。

わたしたちはレヴィナスから背教するが、
しかしこの背教の運動はレヴィナスのうちに
既に予示されていることを認めねばならない。
この背教はレヴィナスに対する
最大の忠実さのうちに遂行せねばならなかったものである。

レヴィナスは〈別人〉に該当する何かを全く見てはいないのではない。
寧ろそれをこそ一番の問題として提起している。
だがわたしたちはそれを読めない。

レヴィナスのテクストは我が国においては読むに堪えないものとなっている。
この解読不可能性は別人の根源的な翻訳不可能性と
そしてまさしくデリダが繰り返し翻訳の問題に密接にかかわるものとして
共に提起している黙示録的語調の問題なのである。

〈別人〉は本質的に黙示録的である。

黙示録的なものとは異なる語調が混合されることによって
調子外れ(Verstimmung)になってしまうことである。

〈別人〉はまさに〈他者〉の異なる語調なのであるが、
この語調が忍び込むことによって
〈Autre〉を〈他者〉と翻訳しつつなされる
あらゆる思考は調子を狂わされてしまう。
〈別人〉は〈他者〉に黙示録的に混合された不協和音であって
それが鳴り響く限り、レヴィナスの哲学は読むに堪えない邪悪な哲学となる。

調子が狂った音という黙示録的問題は同時にまた
一九八五年前後に音楽、
とりわけロックミュージックを襲った問題ともつながっている。

ちょうど我が国でレヴィナスが流行し始めたころ、
音楽に起こった邪悪な異変と密接に絡み合っている。
たかが音楽であると笑うべきではない。
音楽における調子外れは今日も外れたままの調子を続けており、
もはや耐え難いところにまで来ているというべきである。
音楽における調子外れこそ最も調子外れという問題を
見えやすく提示している。
音楽は単にそれ自身が調子外れであるだけではなくて、
それ以外のあらゆるものの調子を外れさせる。

これと並ぶものは広告である。
CMというものの黙示録的邪悪性をわれわれは看過するべきではない。
CMという野蛮な文化をわたしたちは野放しにしておくべきではない
と考える。
わたしたちは資本主義の最大の野蛮は貧困の問題より以上に
CMにあると考える。

CMは暴力以外の何者でもない。
わたしたちは何よりCMを依頼したり製作したりするような会社に
存続する権利があるのかどうかを問題提起する。
またTV局をはじめとするマスメディアというものについても
その生存権を問うべきであることを問題提起する。
わたしたちは資本主義は滅亡するべきであると考えるが、
そのとき真っ先に滅亡するべきであるのは
レコード会社や広告代理店や放送・出版・新聞社の類いであり、
これらのものを抹殺することなくしては、
わたしたちはすべての倫理を失い、
そして全滅しかねないところまで来ているのだ
ということを認めるべきである。

こうしたものは既にただ社会の調子を狂わせて
お互いに殺しあわせること以外の何の役にも立っていない。
調子を狂わせて人間の全生活を破壊することだけが彼らの目的であり、
そして許しがたいことにこれらの会社は、
その明白な社会破壊活動によって私腹を肥やし、利益を得ているのである。
わたしたちはこのメディアという黙示録的大淫婦を
このまま放置しておくべきではないと断言する。

マスメディア(mass media/mass medium)、
この大衆的=団塊的なものは
〈大衆伝達媒体〉と翻訳されるのが
真に適当であるかどうか大いに疑問である。

このものは黙示録的語調の暴力を撒き散らしている魔女的なものであって、
実際上、特に〈幻視の伝送〉であるTelevision を通して
大淫婦的にわめき散らしている悪霊的=白痴的なものである。

それは既に多くの人によって〈大衆霊媒〉と命名され直してきているのだが、
そして実際にその通りの公然たるオカルト的降霊術以外の何者でもないのだが、
共に見忘れてならないのはマスメディアの〈マス〉は
真に大衆というべきものなのかということである。
それは真に実体ある大衆を意味しえているのか
という問いも立てられなければならない。

マスメディアは〈大衆〉の名に於いて、
或いは〈公共〉の名に於いて常に大言壮語するが、これはいかがわしい。

それは決して〈大衆〉の意志を代弁も表象もしていないし
またできるわけもない詐称的なもの僭越なものである。

常にそれは相変わらずというよりも
必然的かつ本質的に大本営発表的情報操作以外のことをなしえないし、
そしてその手前には一度として〈大衆〉がいたためしはない。
寧ろ逆に常に孤独に切り離され、
疎外されまた排除され、生きる権利さえ奪われた個人が、
脅迫されているのに過ぎないのである。

わたしは社会学という似非学問を
同じく似非学問に過ぎない心理学同様まったく認めない。

これらは現実的に社会の破壊および心理の破壊
(文字通りの意味でそうである)以外の何も行わない
社会的かつ心理的暴力でしか実質的にありえないからである。

とりわけ有害無益言語道断なお追従以外の何も言わない社会学
(社怪学というべきであろうが)はろくな言説をたれ流したことはない。
宮台真司のような小物の視野の狭い馬鹿者
(われわれの〈社会〉とやらを代表する
 もう一人の鏡像的双子の上祐氏、
 こいつも下らぬ真理=サティアンの
 毒ガスまみれの内実を隠蔽するYou're Layerの
 ドッペルゲンガーに過ぎない)
のことをいいたいだけではない。
(※この文章は1995年12月末に書かれた)

マクルーハンとかボードリヤールとかいうような
横柄な大馬鹿者、その大風呂敷的視野に対してこそ
われわれの攻撃的な〈認めない!〉はその刃先を振り向けるべきなのである。
このような人間たちにはそもそも著作物を出版する権利など
与えるべきではないし、
敢えてヒトラー的語調をとっていうが、断固としてガス室に送るべきである。

彼らの言説は常に黙示録的語調以外の何者でもなかった。
わたしは哲学は批判されるべきであると思うが
生かしておくべきであると考える。

しかし社会学に関しては批判する価値もない。
むしろ社会学は有無をいわさず処刑され虐殺され
焚書坑儒されなければならないと断言する。
特にマクルーハンとボードリヤールは血祭りに上げねばならない。
前者はメディアはメッセージであるとかマッサージであるとか
愚にもつかない黙示録的託宣を行い、
実際にはどのようなものでもありえるような
この魔女メディアをそそのかして
新たな悪事に手を染めさせているのに過ぎない。
後者は前者よりは比較的まともな人間である
(それゆえに権威はなくその有害な影響力は少ない)とはいうものの、
シミュラークルだシミュレーションだと
哲学者や文学者(真の意味での哲学者)たちから盗用した
(これは知的所有権というようなそれ自体社会学的=社会悪的問題ではない)概念を
濫用
 (常に盗用や剽窃よりも、合法的手続の下でぬけぬけとおこなわれる
 〈引用〉すなわち典拠を振りかざした
 〈濫用〉こそが糾弾されなければならない)
して、
社会を現実的にシミュラークルのシミュラークル、
シミュレーションのシミュレーションに
堕落させることにのみくみしたのである。

わたし、神澤昌宏は何よりもニーチェ的人間である。
わたしは社会学者という最悪の教養俗物が何より嫌いである。
彼らは黙示録的語調においてのみ語る。
そして最も黙示録的語調の暴力をサリンのように
毎日散布している邪教の輩である。
故に社会には黙示録的暴力のみが満ちあふれる。

社会学、それこそ最悪のカルト教団であり、
オウム真理教より遥かに悪質なオカルティズムにしてテロリズムだ。

しかしこのようなものの蔓延の中で、
哲学者は自分だけは手をこまねいているだけの
お奇麗なパリサイ人であってよいのだろうか。
わたしはそのような倫理は認めがたい。

寧ろキリストのように野蛮に行動し、
ツァラトゥストラのように没落しなければならない。

わたしは同時にデリダからも背教する。そうである。
黙示録的語調の野蛮に対しては、
自らも大いに黙示録的に尊大な語調でもって
よりゲバルト的に吼えるべきなのである。

現在は最悪の時代である。
そしてこの国にはそもそも哲学科というものが存在していない。
あるのは名目だけのものであって、
そこにいる連中は単に己れを身奇麗に保つこと以外に
必然的に何もなしえないパリサイ的人間でしかないではないか! 

むしろパリサイ的倫理こそ悲しむべきものではないのか。
わたしはそう言いたいのだ。それは自ら選び取った戒めなどであるものか。
そうではないのだ。この倫理は強制されたものである。
それは裏返せば全くのバビロン捕囚の着せられた枷をしか
意味しえていないのである。

われわれに必要なのは律法学者ではない。救世主でもない。
そうではなくて、炎の剣をもった王者イマヌエルであり、
獣であり、アンチクリストあるいは偽キリスト、
または背教のメシアであるシャバタイ=ツヴィであり、
ノストラダムスの恐怖の大王であり、ヒトラー総統である。

われわれは律法を捨て、またタルムードを捨て、
カバラと魔術と黙示文学を手に取るべきなのである。

律法学者などいらない。救世主も必要ではない。
われわれは預言者であらねばならぬ。
しかし、それは荒野で呼ばわる声を意味しない。
もはや砂漠などないのであり、王国は滅亡していることを見るべきである。

時はエリヤやエレミヤやエゼキエルの段階ではない。
預言者はもはや危機を告げる存在ではない。バビロンは捕囚している。

だから預言者とはその人自身が一種の幻なのだ、
そして幻として語るべきである。
今、預言者とは誰か、それはもはやエゼキエルやイザヤには非ず、
ダニエルである。
われわれはダニエルという異貌のそして異教的な預言者となるべく
背教しなければならない。