事実性の超歴史性の小石は、
それ自身を歴史=全体性の彼方に位置付ける。

この小石は〈まずある〉の無味=乾燥な、
即ち無気味的砂漠的無意味性の味気無さとして〈無に帰したもの〉である。
それは必然的にあるものではない。
そのようなものとして端緒はその曙光を開披している。

〈まずある〉は〈ひどくわずか〉である。
わたしはこれを〈微妙性〉及び〈僅少性〉として把持転換した。
これは〈貧困性〉そして〈ほとんどない〉の
〈殆無性〉といってよいものである。

しかしまたこの小石のメタファーによって示された〈まずある〉は、
匿名的であってもしかし某かの〈顔〉めいたものをもつ。
エニグマであるとしても小石には顔というべきものが恐らくある。

これは一個の無に帰された宇宙である。
歴史=全体性を無に帰するこの小石は
何かしら核爆弾でありまた何かしら〈神〉である。

この事実性=超歴史的なものは、
必然性の不可能性そしてまた不可能性の不可能性としての
無限乃至無際限の可能性を問題提起する。

〈ただある〉の〈そこにある〉(Dasein)は消滅的または壊滅的である。
それはハイデガーが『物への問い』で戦慄したような〈物〉としてある。

この小石のようにそっけない事実性=超歴史的なものは裸体的である。
裸体的であるとは秘匿的なことであろうか。
または皮膚的=表層的というのが相応しいだろうか。

そうではない。

裸体的であるとは内部をさらけ出すことである。
エンテレケイアという衣をこそ剥ぎ取ることである。
それは全くエネルゲイア、現実態であるが、
さらけだすのはむしろデュナミスの海である。

小石は現実世界から可能世界に墜落することで
無限存在=過剰未完成態へと〈無=未存在〉に帰しながら、
実は歴史をその彼方へと追い越す。故に異なる歴史が始まる。

この小石は裸体である。
この裸体性は〈黙示録的〉(Apocalyptic) と言い換えるべきである。
それは正しく覆いを剥ぎ取って、
己れの恐るべき裸体美をあらわに示すことを意味しているからである。

事実性はその覆いを取り除かれた何事か目を撃つものである。
出来事は黙示録的裸形性である。
そして常に預言の過剰な意味空間の溢れ出しとしてある。

黙示録的なものと終末論的なものは違う。
テロスの方位がそれぞれ別方向を向いてしまっているのである。

事実性、それは必然性ではない。

必然性は終末論的(目的論的)である。
それはエンテレケイアを目指す。
事実性はこのエンテレケイアを転覆してしまう。
事実性は恐らくある種の不可能性の変容である。
というより、
不可能性の奇怪なターニングポントになっているといってよいだろう。

事実性はアルファにしてオメガである。それはテロスである。
このテロスを目指す運動は終末論的で目的論的である。
それは必然性に、エンテレケイアに向かう
自己実現の運動(エネルゲイア)である。

しかしテロスから始まる運動がある。
それは寧ろデュナミスの海を開いてしまう。それは偶然性を生じる。
そして必然性の〈このようでしか=ありえない〉を
〈どのようでも=ありえる〉に裏返しつつそこに引き込む。

現実性から可能性へと事実性は退行する。
不可能性(impossibility)を
何かしら可能性の内(in-possibility)へと
中断しつつ意味転化するこれはなにか。

事実性(実在性/現実性)は、
それ自身が可能性の終わりにして始まりなのだ。
それは可能性のテロスとして可能性の終わりであり、
そのようなものとして限界である。

事実性はそのようなものであるときに
必然性として可能性を有限化する可能性の極限=境界である。
それは可能性の終端である。
それは可能性を区切る。
可能性を不可能性から区切る。
それは〈ただある〉だけの事実性にできることではない。

他方、わたしたちは既に、
可能性を
不可能性の不可能性および
必然性の不可能性の二重否定から考察した。

実際にはそれは否定ではなくて不可能化というべきものである。
可能性は折り返された不可能性である。
不可能性は自分自身を不可能化することによって可能性を生じる。

わたしたちはデュナミスの運動に先立つ
アディナトンの運動があるのではないかと思い始めている。

不可能性〈ありえない〉は
〈ありえないこと〉は〈ありえない〉となるときに、
この奇妙なトートロジーのなかで、
魔法のように無限の可能性に変容してしまう。

不可能性(impossibility)は
可能性の終わりなさ(indefinite possibility)に、
つまり不定の曖昧な可能性に漠然化する。
そして、終わりなき=無限の可能性(infinite possibility)に
うつりかわる。

〈ありえないこと〉が〈ありえない〉ということはぶきみである。
〈ありえないこと〉はありえねばならない。
つまり不可能性それ自体がどこかで可能になさねばならない。

〈ありえないこと〉が〈ありえないこと〉は
〈ありえなく〉されねばならない。
不可能性の不可能性の不可能性として、
可能性の不可能性(=不可能性)と
不可能性の可能性
(=不可能性を可能ならしめることによって
 それ自身は可能性となった不可能性)が生じる。

しかし、このままでは不可能性にせっかく生じた可能性は、
ただ不可能性をのみ成立させるだけである。

可能性の可能性は何らかの外のものによって救われねばならない。
可能性の可能性は既に考察したように現実性(現実態)から来る。

問題はしかし無限性というよりも、
無限の可能性と化してしまうような不可能性の不可能性の、
そしてまた可能性が再び単なる無際限な不可能性に帰着してしまうような
(そして可能性は不可能性へと吸収されたしまうのだが)、
このような悪循環的自体のこの不定性(infinitivity)にある。

ピリオドを打つ(終わらせる〈finish〉)ということが必要であるが、
そしてこの必要性ないし必然性の要請に
応答してやってくる事実性=現実態の小石をピリオド(終止符)として
この無限存在の上に置くことのテロス(目的=終末)のその眼目としては、
無限を有限化する(limit)
つまり終末させることが問題になっているのではなくて、
むしろこの無限を定義する(define)こと、
終止させることそして終始させることこそが問題なのだ。