背教の定位アポスターズ(Apostase)は、
純粋理性の二律背反のこの不可能な内である〈中間〉の裂け目に
己れの場処を据えようとするものである。

重要なのはこの不可能性が、
すなわち二律背反によって防御された聖域であるということ、
そしてまたこの不可能性が逆に二律背反の根拠であるということである。
さらにこの二律背反は不可能性には適用し得ないということである。
(ジル・ドゥルーズがそれを示唆している。)

さらにまた最も重要なのは、この不可能性=二律背反は、
弁証法的媒介=止揚の運動を認識論的に切断して
不可能化する伝家の宝刀だということである。

ヘーゲル的弁証法は矛盾を原動力としている。
しかし不可能性には矛盾律は適用し得ない。
不可能性はそこに解消や止揚されるべき矛盾を
実定的に見いだし得ないのである。

つまり止揚の必要性が無い。
そこにドゥルーズは別の弁証法を見いだしている。
それは反体系的な逆説弁証法である。
それは二極へと分裂することによって、
ヘーゲル的な綜合の一致点(一極)をぶち壊しにし、
引き裂いてしまう手合いのものである。

だが、ルイス・キャロルの逆説論理学に注視する
ドゥルーズのこの魅力的な思想の先にあるものにわたしたちは目を向ける。
それはノヴァーリスの魔術的観念論の雄々しい復活である。

カントからヘーゲルが帰結するというのは誤りである。
ヘーゲル以後の哲学という問題設定や歴史認識自体が
何か間違った愚かしい錯覚であり、
単なる支配的な固定観念に過ぎないのである。

むしろ、カントから直接出てくるのはノヴァーリスである。
わたしたちはApophisicsと共にMagicksを理念として掲げた。

Magicksとはクロウリーがその魔術を呼ぶときに用いた特殊な呼称であるが、
さしあたって〈魔術〉を意味している。
そこでわたしたちが構想しつつあるのは、
ノヴァーリス的な魔術的観念論の積極的肯定であり、
それを強靭な反ヘーゲル主義の牙城に鍛え上げることである。