凡そ存在論ほどに有難迷惑なものはない。

【有難迷惑性】
〈有難迷惑〉とはこの場合、
まず逐語的=直訳的な意味合いに於いて味覚されねばならない。
〈有難迷惑〉とは、
〈存在〉を〈困難〉〈昏迷〉〈幻惑〉の三つの罠のなかに呪縛している
という意味に於いて、存在論に対して言われている批評的な概念である。

〈存在論〉は〈有る〉を
〈困難〉〈昏迷〉〈幻惑〉の三つの知的苦境に陥れている。
〈困難〉〈昏迷〉〈幻惑〉を〈有る〉に到来せしめているのは〈論〉(Logos)である。

しかしここで〈論外〉なものが〈論〉に反駁する。

この〈論外漢〉とは
第一に〈漢字〉(エクリチュール)であり
第二に〈感じ〉(センス)であり
第三に〈修辞学〉(美学)である。

すなわちApophisicsとしての形而上学
(その内実は不可能性の美学という革命思想である)が
〈論〉それ自体の思想的な是非を
問題提起的に且つ実用主義的に
(problematically and pragmatically)に、
Outsideから批判的鑑識の容疑者に据えているのである。

〈有難迷惑性〉とはアポフィジカルな概念である。
しかし同時に極めてカント的に構成された概念でもある。

存在論は有難迷惑であるというとき、
勿論それが余計なお世話であるという意味もこもっている。
しかしこの判断は結論である。
問題はこの結論がいかにして必然的であるかを導くことにある。

存在論は存在を〈困難〉に置く。
この〈困難〉とはアポリア(難問)を意味する。
しかしよりカント的な言い方に直せば、これは〈矛盾〉ということである。
それは〈困難〉の次の〈昏迷〉とセットになっている。
〈昏迷と矛盾〉の結果として〈惑〉が到来する。
〈惑〉とは一方において不安であり心配である。
他方ではそれは〈幻惑〉すなわち〈仮象〉のとりことなることを意味する。
これは特にハイデガーの存在論を想起するとき意味深長である。

〈有難迷惑〉という四字熟語はたんに言い得て妙という以上に
ハイデガーの存在論それ自体を運命づけてしまっている。

カントの先験的弁証論のおそるべき判決が
この〈有難迷惑〉のテトラグラマトンとなってハイデガー存在論に下されている。

〈難〉は既に〈矛盾〉と言ったが、
これをより厳しく言い直せば〈二律背反〉である。
〈迷〉とは既に〈昏迷〉と言ったが、
これをより厳しく言い直せば〈誤謬推理〉である。
〈惑〉とは既に〈幻惑〉と言ったが、
これをより厳しく言い直せば〈先験的仮象〉である。

しかし、有難迷惑の後半の〈迷惑性〉
すなわち〈先験的仮象に惑わされての誤謬推理〉が
結果として他者に迷惑をかけるというその存在の不倫性に関しては、
レヴィナスが十分に批判してくれている。

わたしたちもやがてそれを独自に問題にするであろうが、
今着目するべきは、有難迷惑の前半の〈有難性〉である。

存在論は迷惑なだけではない、非常に有難いものである。
だが〈有難い〉とはどういうことであるのか。
そこには二重の意味があることにわたしたちは着目しなければならない。

まず、〈存在論〉はそれ自体が有ることが難しいのである。
それは成立困難な学であるという嫌疑がかかっている
という意味がこめられている。
しかしまた、〈存在論〉はお有難いものとして
感謝されまたお礼を言われそして宗教のごとく崇拝される学でもある。

これは一体何故であるか。

存在論の存在困難性(有難性)と、
他者及び社会に不倫(悪)を働く存在不倫性(迷惑性)は
実は表裏一体のものである。
有難いものは迷惑なものである。
それは存在論が宗教的だからである。

そして宗教的なものは独断的であり独善的で専横にして野蛮である。
存在論は傲慢な学問であるが、それはその本質的な宗教性から由来している。
それはつまり存在論が聖なる学問として聖性をもつからである。

この特質は何もハイデガーの存在論に限るものではない。
既にヘーゲルの精神現象学にもみられるものである。

ハイデガー存在論はカトリシズムと無縁ではない。
元来彼はカトリック教徒であり、イエズス会に入ろうとした男である。
更にフライブルク大学で最初に入学したのは神学部である。
ヘーゲルもまたチュービンゲン大学神学部から出発し、
その初期においてはキリスト教研究に没頭した人間である。
こちらは敬虔なプロテスタント教徒である。

この故にわたしたちは嫌疑をかけてもよいのではないかといいたいのである。
彼らは寧ろ変装した神学者であって、
或る種のアポロジー(護教論)を
哲学的に構築しようとしたのではないかという疑いである。

わたしたちはApophisicsとして形而上学を立てようとするが、
それは背教の定位であるアポスターズ(apostase)の思想と表裏一体である。

背教とは反キリスト教たらんとするということである。

元来、形而上学の祖として典拠にされているアリストテレスは
キリスト教など知るわけもない人であった。
アポスターズとはギリシャ語で〈距離〉を意味する。
キリスト教から距り離れることとしての背教の定位は
アリストテレスの信じたであろう異教を積極的に肯定しつつ、
自らを背教徒たらしめようとすることである。
背教とは距離をとりつつ見ることをも意味している。

存在論や形而上学は確かに有難い。
しかしその有難性や聖性は何故どうしてかくのみあらねばならないのか。
何故もっと別の仕方であってはならないのか。