ディグナーガ及びクザーヌスの非他者は
不可能性と連結することによって
アリストテレスのいうような必然性の様相を形成する。
他方において
ドゥンス・スコトゥスのいうような〈これ性〉と連結することによって
クリプキのいうような現実性及び可能性にあいわたる
固定指示された単独性を形成する。
非他者は必然性と単独性の中間に宙づりになっている。
非他者は自相と共相の間を切り離す差異である。
自相とは個物であり個体であり、
それ自体において単独的なものと考えられている。
他方、共相とは一般者であり共通概念を意味する。
自相は〈これ性〉haecceitasに対応している。
他方において、共相は〈何性〉quidditasに対応している。
非他者は恐らくアヴィセンナの考えたような
本性 natura<未限定の本質) に対応する何者かである。
〈他なるもの=ではありえない〉という必然性は他者の不可能性である。
必然的存在とは不可能な他者として非他者を指定している。
しかしまた必然者としての非他者は非他者の可能性でしかありえない。
だが、もしも非他者が不可能であるとすれば、
〈他なるもの=でもありえる〉という偶然性(他者の可能性)が到来する。
非他者はいわば別人である。
別人は不可能な他者であるがそれにもかかわらず一種の他者なのだ。
別人は他者のようには現実存在しないし、
わたしの可能性としてのいかなる他者でもありえない。
非他者は普通の意味において現実存在しない。
しかしクザーヌスはこれを神であるとし、
息吹の息吹、絶対的に他なるものにおいて見ている。
非他者とは様相としてしかありえないような
それ自体としては不可能なものである。
〈他ならぬ=このこれ〉というとき、
単独的なものは必然的に決定されたこれ性として創造される。
或る意味では、それは非他者が〈このこれ〉であるとして
見いだされているのである。
それは〈他ならぬ〉は〈このこれ〉であると判断することである。
そのときそれは共通本性によって通約可能なものではなくなっている。
非他性は、しかし一方で、ディグナーガのアポーハ論でみるように、
共通概念をつまり共相(一般者)をも形成する。
すなわち非他性は自相としての自相と同時に
共相としての共相をも同時に創造してしまう魔力なのである。
このこれは他ならぬものである、というとき、
このこれは一般的なものから区別された絶対的なものとして、
もはや一般概念には還元不可能な
切り離され聖別されたものとして見いだされる。
しかし全く同じような仕方で
一般的なものそのものも単独的なものとして、
それに内属せしめられる特殊なものには還元不可能な
切り離され聖別されたものとして見いだされることに注意しよう。
非他性とは絶対化することである。
そこにおいては実は特殊という水準こそが拒絶されるのだ。
一般者も単独者も同類を排他する非他性によって創造されるのである。
一般者も単独者も例外者として創造され除外される。
恐るべきことに、共相と自相の、
普遍的本質(quidditas)と個体的本質(haecceitas)の
共通的本性(natura communis)としかいいようのないもの、
本性 natura<未限定の本質:アヴィセンナ)としかいいようのないものが
必然的に見いだされずにはいない。
本質 natura(essentiaではない)とは非他性である。
単独的なこのこれは他ならぬものである。
一般的な共通性もまた他ならぬものである。
従って、quidditas も haecceitas も
その natura の定義においては非他性でしかありえない。
一か所に差異が集まり一か所に凝結するとき、
それは全体を代表するものであれ、
全体から除外されたものであれ、非他性においては無差別なのである。
この非他性は他者の不可能性である。
不可能な他者、不可能者としての他者として非他者はある。
この存在はパラドキシカルである。
しかしここでわれわれが「不可能性のデカルトII」で考察したように
〈cogito=sum〉が実は〈cogito≠sum〉を掩蔽するものでしかなかった
ことを思い出すべきである。
自己は真には必然的な存在ではなかった。
〈我在り〉において明証が完結するとみることは錯覚であり盲信である。
実は〈在り〉の成就は延期されており、
sum は神の存在に到達することによってやっと真理となりえたのだ
ということに思いを致すべきである。
そしていうまでもなくデカルトが到達した神と
クザーヌスが非他者として思考した神とは厳密に一致する。
だからこそ、〈cogito, ergo sum〉は
次のように正確に言い直さねばならない。
〈ego cogito, ergo sum, quia non aliud est〉
〈他ならぬ=このこれ〉は
寧ろ〈他ならぬ≠このこれ〉を掩蔽するものであろう。
〈他ならぬ=このこれ〉は、
非他性と haecceitas の結合によって単独者(自相)を形成する。
しかし実際は非他性と haecceitas の間には、
すれすれのところで切り離された裂目がある。
そのことによって haecceitas は非他性の座を奪って生じる事ができる。
それは真の意味において単独的なものではない。
〈他ならぬ〉は他方において、
quidditas(共相)を寧ろ直接単独的に形成する。
寧ろ一般性こそが単独的なものなのである。
このことはディグナーガのアポーハ論から明瞭に推察できる。
火は火に他ならぬものとして
火の同一的本質つまり共通的普遍概念を形成する。
普遍としての火の一般的なものは実体的にあるかのように見える。
しかし実はそうではなくて、それは火の他者の他者、
火ならざるものの否定、非他者としての火でしかありえない。
だがしかしそうであるならば、
quidditas は、haecceitas と同じように
非他性を掩蔽しているのだといえる。
単独性は実際にはそれ自体普遍性である。
しかし、それは所謂単独者である具体的個体において
〈他ならぬ=このこれ〉として、
かつてそれがあったのとは違う次元において見いだされる。
ところが本来単独者である筈の普遍性においては
逆に単独性は非他性の〈他ならぬ〉と共に隠されてしまう。
ところがそこにおいて掩蔽するものとして
身代わりに quidditas(共相)が生じる。
これは一般的概念であり、何か同一的本体のあるものとして
それに内属するべき自相を特殊なものとして照らし出す。
それは己れが照らし出した特殊なもの(多数者)に
分有される共通本質である。
一般=特殊は共通本質である quidditas の
質的同一性に統一的に浸透される。
そこにおいては自相は共相に包摂されその異他性は消絶してしまう。
だが、アポーハ論を通して看るなら、
実際に多数の特殊者たちに隠された普遍性から
分配され分散されているのは
一般性ではなくて、非他性であり単独性である。
考えてみればこのねじくれた構造は非常に複雑で奇怪である。
不可能性と連結することによって
アリストテレスのいうような必然性の様相を形成する。
他方において
ドゥンス・スコトゥスのいうような〈これ性〉と連結することによって
クリプキのいうような現実性及び可能性にあいわたる
固定指示された単独性を形成する。
非他者は必然性と単独性の中間に宙づりになっている。
非他者は自相と共相の間を切り離す差異である。
自相とは個物であり個体であり、
それ自体において単独的なものと考えられている。
他方、共相とは一般者であり共通概念を意味する。
自相は〈これ性〉haecceitasに対応している。
他方において、共相は〈何性〉quidditasに対応している。
非他者は恐らくアヴィセンナの考えたような
本性 natura<未限定の本質) に対応する何者かである。
〈他なるもの=ではありえない〉という必然性は他者の不可能性である。
必然的存在とは不可能な他者として非他者を指定している。
しかしまた必然者としての非他者は非他者の可能性でしかありえない。
だが、もしも非他者が不可能であるとすれば、
〈他なるもの=でもありえる〉という偶然性(他者の可能性)が到来する。
非他者はいわば別人である。
別人は不可能な他者であるがそれにもかかわらず一種の他者なのだ。
別人は他者のようには現実存在しないし、
わたしの可能性としてのいかなる他者でもありえない。
非他者は普通の意味において現実存在しない。
しかしクザーヌスはこれを神であるとし、
息吹の息吹、絶対的に他なるものにおいて見ている。
非他者とは様相としてしかありえないような
それ自体としては不可能なものである。
〈他ならぬ=このこれ〉というとき、
単独的なものは必然的に決定されたこれ性として創造される。
或る意味では、それは非他者が〈このこれ〉であるとして
見いだされているのである。
それは〈他ならぬ〉は〈このこれ〉であると判断することである。
そのときそれは共通本性によって通約可能なものではなくなっている。
非他性は、しかし一方で、ディグナーガのアポーハ論でみるように、
共通概念をつまり共相(一般者)をも形成する。
すなわち非他性は自相としての自相と同時に
共相としての共相をも同時に創造してしまう魔力なのである。
このこれは他ならぬものである、というとき、
このこれは一般的なものから区別された絶対的なものとして、
もはや一般概念には還元不可能な
切り離され聖別されたものとして見いだされる。
しかし全く同じような仕方で
一般的なものそのものも単独的なものとして、
それに内属せしめられる特殊なものには還元不可能な
切り離され聖別されたものとして見いだされることに注意しよう。
非他性とは絶対化することである。
そこにおいては実は特殊という水準こそが拒絶されるのだ。
一般者も単独者も同類を排他する非他性によって創造されるのである。
一般者も単独者も例外者として創造され除外される。
恐るべきことに、共相と自相の、
普遍的本質(quidditas)と個体的本質(haecceitas)の
共通的本性(natura communis)としかいいようのないもの、
本性 natura<未限定の本質:アヴィセンナ)としかいいようのないものが
必然的に見いだされずにはいない。
本質 natura(essentiaではない)とは非他性である。
単独的なこのこれは他ならぬものである。
一般的な共通性もまた他ならぬものである。
従って、quidditas も haecceitas も
その natura の定義においては非他性でしかありえない。
一か所に差異が集まり一か所に凝結するとき、
それは全体を代表するものであれ、
全体から除外されたものであれ、非他性においては無差別なのである。
この非他性は他者の不可能性である。
不可能な他者、不可能者としての他者として非他者はある。
この存在はパラドキシカルである。
しかしここでわれわれが「不可能性のデカルトII」で考察したように
〈cogito=sum〉が実は〈cogito≠sum〉を掩蔽するものでしかなかった
ことを思い出すべきである。
自己は真には必然的な存在ではなかった。
〈我在り〉において明証が完結するとみることは錯覚であり盲信である。
実は〈在り〉の成就は延期されており、
sum は神の存在に到達することによってやっと真理となりえたのだ
ということに思いを致すべきである。
そしていうまでもなくデカルトが到達した神と
クザーヌスが非他者として思考した神とは厳密に一致する。
だからこそ、〈cogito, ergo sum〉は
次のように正確に言い直さねばならない。
〈ego cogito, ergo sum, quia non aliud est〉
〈他ならぬ=このこれ〉は
寧ろ〈他ならぬ≠このこれ〉を掩蔽するものであろう。
〈他ならぬ=このこれ〉は、
非他性と haecceitas の結合によって単独者(自相)を形成する。
しかし実際は非他性と haecceitas の間には、
すれすれのところで切り離された裂目がある。
そのことによって haecceitas は非他性の座を奪って生じる事ができる。
それは真の意味において単独的なものではない。
〈他ならぬ〉は他方において、
quidditas(共相)を寧ろ直接単独的に形成する。
寧ろ一般性こそが単独的なものなのである。
このことはディグナーガのアポーハ論から明瞭に推察できる。
火は火に他ならぬものとして
火の同一的本質つまり共通的普遍概念を形成する。
普遍としての火の一般的なものは実体的にあるかのように見える。
しかし実はそうではなくて、それは火の他者の他者、
火ならざるものの否定、非他者としての火でしかありえない。
だがしかしそうであるならば、
quidditas は、haecceitas と同じように
非他性を掩蔽しているのだといえる。
単独性は実際にはそれ自体普遍性である。
しかし、それは所謂単独者である具体的個体において
〈他ならぬ=このこれ〉として、
かつてそれがあったのとは違う次元において見いだされる。
ところが本来単独者である筈の普遍性においては
逆に単独性は非他性の〈他ならぬ〉と共に隠されてしまう。
ところがそこにおいて掩蔽するものとして
身代わりに quidditas(共相)が生じる。
これは一般的概念であり、何か同一的本体のあるものとして
それに内属するべき自相を特殊なものとして照らし出す。
それは己れが照らし出した特殊なもの(多数者)に
分有される共通本質である。
一般=特殊は共通本質である quidditas の
質的同一性に統一的に浸透される。
そこにおいては自相は共相に包摂されその異他性は消絶してしまう。
だが、アポーハ論を通して看るなら、
実際に多数の特殊者たちに隠された普遍性から
分配され分散されているのは
一般性ではなくて、非他性であり単独性である。
考えてみればこのねじくれた構造は非常に複雑で奇怪である。