ディグナーガのアポーハ論が最後に暴き出した「他者」、
この全き他者である非他者という名の恐怖の他者は、一体何を意味するのか。

もはや相異性(differentia/diaphora)とは言い得ない
この異なる差異は、アリストテレスによって
〈異他性〉(diversitas/heterotes)と呼ばれていたものである。

相異性の場合、
それは相異するもの同士の間に
類的または種的な共通性(同一性)が存在している。
相異性は比較可能な差異である。
それは同一の共通本質に属しながら
或る特定の点において異なるという限定[規定]された差異である。
それはラチオ(ratio/理性=比例=計算)のある差異である
ということができる。
それは共通本質に通分され通約可能になっている差異である。
つまり同一性に共通分母をもつことによって
その分子として比較対照可能な・定義可能な差異となっている。

これに対し、異他性は同一性に対立している。
異他的であるもの同士の間には
それが共に属する共通本質は見いだされていなくともよい。
それは原始的な差異であるといえる。
同一の共通本質が見いだされ、
それに媒介され通分されても
異他的であるもの同士は異他的であるがままに留まるが、
しかし相異的なものになる。
異他的なもの同士を貫く同一の共通本質において見られるとき、
異他は相異へと質的に転換する。
異他性は消えることはないが、
同一性(共通性)に担われることによって理性化され、
相異性として思考可能になる。

このことがポイントである。
異他性の同一化は相異化なのである。

逆に相異するもの同士の根底にある
共通本性(同一性)の根(ラチオ)が失われてしまうと、
このような意味での非同一化または絶対的異化は、
相異性を崩壊させ、剥出しの無差別未分化な、
未規定の原始的な差異自体である雑多でカオシックな異他性を
現出させてしまう。

異他的なものそのものとは絶対的な他者である。

ディグナーガのアポーハ論の恐ろしさは、
異他性を相異性(ソシュール的共時体系は相異性の体系である)に
還元するための同一性(共通本性=共相)は
この異他性(他者)を否定(排除)しなければ
作り出すことができないというパラドクスをつきつけるところにある。

ディグナーガは自相と共相の連続性を否定するとき、
実は思考及び論理の第一原理であるとされた自同律を、
同一性を否定してしまっている。
それは〈同じもの〉の根源性を認めないということである。

むしろ〈異なるもの〉〈他なるもの〉こそが最初にある。

共相は自己同一的なもの(自相)から生まれないし、
共相同士の相異性=示差性の部分としても生まれえない。
何故なら相異性は既に同一の媒質に共属することを
前提してしまっているからである。

共相相互間の共相(メタ共相)から共相を起源させることは
結局共相そのものを何らかの自相と看做してしまうことを意味する。
つまりメタ共相を創ろうとするとき、
各共相はそれに包摂されるべき自相(個物)の位置に立ってしまうが、
そこでも再び同じ問題が繰り返される。
自相は相互に全く異他的なものであるので、
異他的であるという逆説的な共通本性によってのみ通分せられうる。

ということはどういうことか。
異他性は逆説的に同一性へと反転するということである。

つまり共相全体(同一性)は、
自相全体における異他性の否定、異他性の異他性、
他者の他者、他者の否定、他者の排除、
すなわちアポーハによってしか成り立たないということである。

異他性は自己反転することによって自己否定する。
つまり自相は共相に反転するのだが、
実はその異他性の自己否定によって、
自相は自己同一的となり、
共相は自相を包摂しうる概念的な共通同一性として、
それぞれの次元を開き得るのだといえる。

異他性(diversitas)は、差異としての差異として、
相異性(differentia)に先立つ。
相異性は同一性(共通性)に於いて、
その成立後にその内部においてしか成り立たない。

このことを思うとき、
ラカンが最初のシニフィアンを問題にするとき
何故〈他者〉という用語を使わざる得なかったが了解される。
それはディグナーガの洞察とさほど隔たってはいない洞察の結果である。
ソシュール的な相異性の体系は原始的場面においては
基盤となる同一性を失って
雑多な差異のピースの山である
純然たる異他性(diversitas)を生じざるを得ない。
この異他的渾沌の怪物が、
ラカンのいわゆる〈母〉であり、対象aであるだろう。
これに対して自体的(自相的)なるもの
すなわち〈主体〉または〈自己〉は、
他者の排除(abjection/apoha)をしなければ、
己れを示差的体系のなかに根付かせ位置付けるための
同一性(相異性の成立根拠)を見いだし得ない。
さもなければそれは異他性のなかの異他性であるに留まる。
同一性は共相において生じ、共相は他者の排除によって生じる。
つまり非他性・非他者・〈他ならぬ〉からしか生じない。
非他者は他者の他者である。
つまりこれが大文字の他者Aと呼ばれるもの〈父〉である。

他者(異他性diversitas)と
非他者(他ならぬ/non aliud)と
自己(自体的同一性)は三位一体である。

しかしこれだけでは異他性・自同性・非他性は意味を持たない。
第四のものが必要となる。
それが不可能なものといわれるファルスである。
これが〈このこれ〉または〈これ性〉にあたるものであると考えられる。

〈他ならぬ=このこれ〉は、
自己同一的なものに先立って成立しなければならない。
つまり〈わたしはわたしである〉のではなくて、
まず
(1)非他性において〈わたしは他者ではない(他ならぬ)〉でなければならない。
(2)これ性において〈わたしはこれである〉でなければならない。
そして
(3)固有名において「〈他ならぬ〉は〈このこれ〉である」とされねばならない。