絶対的に唯一の別人というのは、
 恐らく不可避に必然的に存在せざるを得ない。

 これは自他の区別の場合で、
 その〈人を別ける〉という主体の主体化=位相転換の
 自己差異化=微分化の運動のなかに〈別人〉は〈私〉に先立って、
 決して実定的存在者とはなりえない存在者として形成されざるを得ない。

 自己の自己性の根底の無底への飜り(翻訳)として
 別人は〈ある(es gibt/il y a)〉。

 別人は主体の定位=定立(position)に
 様相変換の根源的自発性を統轄する時制のなかで
 本性上より先なるもの(a priori)として前に置かれている。
 それは、主体(主語)がじつはそこから実詞化してきた
 前置詞ないし前定位(pré-position)なのだ。

 位相転換の〈定位〉は、単純な実体化(物象化)として
 〈存在する〉が〈存在者〉になるという
 存在論的差異の内なる逆転劇(転換)ではなくて、
 一時的に半死半生の瀕死の状態(モード)に
 据え置かれることを必要とするような
 〈転位〉の決定的瞬間を避けがたく孕むものである。

 この状態を恐らく古代インドの人々は〈中有〉と呼び、
 ガンダルヴァと呼んでいた。
 現代流行しているチベット密教でいうとそれはバルドの状態にあたる。
 この前置詞的な場所は生死不明の場所であり、
 そこで主体はいわば幽体離脱しているといっていい。

 わたしの考えでは、〈幽体〉や
 それを肉体と結び付けるというヴィーナスの帯(銀の紐)は
 存在論的に必然的な概念表象であって、根拠のあるものである。

 またこの前置詞的な場所への主体の一時滞留は
 恐らくそこに後に無意識の核心となるべき苦い種子を残している。

 しかし、それを単に原抑圧とか出産外傷とかいう
 発達心理学や精神分析の用語を象徴的転用としてではなく
 リテラルな説明概念としてしまうことはつまらない還元主義でしかない。

 とはいえラカンの記号的体系はよくこの事態に対応する解明を
 与えてくれている。
 ただしそこにはなお換言せねばらなないものが多く残っている。

 ともあれ無意識は自我が意識の統覚的〈核心〉(シード)として、
 そして、ふつう identity といわれるような
 〈抜け殻〉を身に纏うこととは別個のものとして形成されるときに、
 必然的にこの〈核心〉自体の核分裂の失われた他方として
 この前置詞的場所に形成されざるを得ないのだ。

 カバラの用語でいうと、
 それは破砕されたセフィロトの容器の殻であり
 苦い樹皮を意味するクリフォトの世界を形成している。
 また換言すれば善悪を知る樹(死の樹/知識の樹)は
 その〈核/種子〉から芽吹いてそれ自体が無意識を
 形成しているのだともいえる。

 このサスペンション(宙吊り)を
 レヴィナスは確かに〈瞬間〉として語っている。
 しかしその出来事の経過を余りにも曖昧にして通り過ぎることで、
 レヴィナスは多くの分析し判明とせねばならぬ事柄を
 イリヤの秘密の曖昧な闇のなかに置き忘れてきてしまっている。

 悟り澄ました顔で語り得ぬものと言われて
 一括処理されてしまう宝箱は換言すれば体裁都合のよい
 ゴミ箱であるに過ぎない。
 しかしゴミであっても燃えるゴミと燃えないゴミの分別をつけないで
 ゴミ処理場に出してよい訳ではない。

 その程度の分別もつけられないようでは
 分析哲学は何も分析しているとはいえないし、
 現象学は何も事象そのものを現わにすべき志向性(意図)を
 有していないといわれても仕方がない。
 わたしは現代思想のこの怠慢で役立たずの
 学者的に安易な神秘主義を認めない。

 このサスペンションのなかに保留された何か忌まわしいものがある。
 それは〈瞬間〉とは実はいえない。
 むしろ別のフェーズがそこに識別されねばならない。

 前置詞的な場所が定位(現在)に先行してあるという見解が
 一層明白に示されているのはハイデガーの後期思想においてである。

 彼は存在を本来的時間であるというとき、
 それが有限化して現在になる以前の
 前置詞的な場での滞留ないし抑制のことを考えている。

 この現在の背後の前-現在の場における滞留(Verhältnis)という語には
 それ自体、前置詞(Verhältniswort)との関連が示唆されている。
 それは押さえること、手控えること、何かに比例すること、
 我慢して息を殺していること、懐具合、資産状態、関係、
 間柄等の含みをもった言葉である。

 (ところで、Verhältnisという語は、
  ヘーゲルにあっては〈相関〉を意味する。
  例えば『小論理学』§135~§141等参照。
  ヘーゲルについてここで論じる余裕はないので後の機会に譲る。
  しかし、そこにはわれわれの考察にとって
  示唆に富む言及が多く含まれている。
  彼が〈相関〉について論じている事柄のトポスは
  われわれが今考察を向けているトポスと重なり合っている。)

 別人はこの前置詞的場所における、自我に〈比例〉する者である。
 それは比例ないし釣合いを統轄する別の主体である。
 自我と自己(あるいは他者)を比例させ、釣り合わせる。

 別人は恐らく前置詞格目的語とか前置詞格補語といっていいが、
 これはちょうどフランス語でいう間接目的語にあたる。

 そこで比例のことを考えるなら、例えばこのようである。

 自我:自己=別人:他者

 ただし、いずれのちにアリストテレスにおいて考えられていた
 さまざまな数学的比例のモデル
 (ニコマコス倫理学などでも考えられている)に
 当てはめて考えてみなければならない。
 しかし今は措くことにしよう。

 別人は、従ってアナロジー的(遡及的に)に
 接近することのできる存在である。
 それはまぎれもなく、類比物(類同代理物/アナロゴン)なのだ。

 サルトルは『想像力の問題』で、
 イマージュを喚起するものとしての
 アナロゴンの媒介の必然性について言及している。
 意識の志向性は不在の対象をアナロゴンの媒介を通して
 イマージュとして喚起するが、
 その前提として意識の対象に対する無化が働くということを強調している。

 別人は他者をイマージュとして喚起するときに媒介として機能する。
 しかし、それは意識(自我)が他者を
 対象として無化する(不在化する)ときに生じる
 幽霊のようなものだ。
 別人は現実的他者が想像的他者(イマージュ)にすりかわるとき
 その曲角に必然的に立っている。

 ここで自我を意識と少し厳密に区分して上の比例式を改めてみよう。

 意識{自我:自己}=別人{他我:他者}

 意識(自己意識/対自)は、
 己れを自我(自分の心)と自己(自分というもの)の分節として
 意識している。
 別人はいわば対他意識として、
 他者を他者と他我(他人の心)に分節されたものとして想像する。

 この場合、想像物というのは他我(他人の心)である。
 別人は他者から他我を想像的に類推的に引き出してくるが、
 実は他者の他者性を覆い隠してしまう。