〈距〉とは隔たりであると共に離れ去り、
離脱として突出しつつあるような何かだ。
apostaseは距離を意味するギリシャ語であり、
それはapostasia(背教)を派生させる
何か根本的な異端化を記述している。
異端とはある種の頭角、まず突出してくる〈距〉のことである。
〈距〉とは踏み出すこと、足を前へと突出させ、
体重を移動させること、極の移動である。
〈距〉は未だ測定可能な距離とはならない距離それ自体の開始である。
異端であり逸脱である距とは
概念(con-cept)の範囲から食み出し、
外(ex)へと突き出す発芽のようなものだ。
それは空なる外をまさぐるさまよいのはじまりの意識である。
距という異端は一方の端であり、
そこではもう一方の端は
まだそれに抵抗するものとして後方を形成してはいない。
一つの端しか持たないような距離は無限の裾野を背後に広げる。
距離はどこからどこまでという形では不確定だが、
それでも〈距〉という異端、
あるいは前衛(avant-garde先鋒/尖端)という前進性において、
progressivitéにおいて、
形(progressif)において、
わたしの人格〈moi〉は
現在進行形の距離形成として
progressivementに(漸進的に累進的に進捗的に数列的に徐々に)
自己同一性よりも強度な
わたしの進歩(progres)としてのわたしを
明確に刻印しているのである。
とはいえ、それは内容ではないのだ。
内容的な明確さ/明晰さとしてではなく、
むしろまだ閉ざしえぬ境界の開けとして、
明晰さの未完の開始として、
明晰さの始まりとして、
その終わりなさとして、
人格は、超存在的に、そして前同定的に、
還元不可能な変わったものとして突出的に己れを目立たしめ、
派手やかに、自己提起的に、
自己に先行して顕在化するケテル的なもの、
ツィムツーム(自己収縮)なき創出なのである。
自我という人格性はこのような際立つものとしての
一方的な区別としての規定作用である。
つまりそれは一種の決断力であり、
或る種の未知数の決定でもあるというような意味で
規定作用détereminationなのだが区別を示すdistinctifなもの、
はっきりと識別される弁別特徴trait distinctifをもつものなのである。
〈距〉とはこのような非対称的な際立ち(distinction)である。
奇しくも(寧ろ必然的にというべきか)
ちょうどこれと同じことを
ドゥルーズは『差異と反復』の第一章(邦訳書P57)で語っている。
無差異(indéfference)というものの
二つの様相(aspect)について語っている箇所で、
一方に未分化な渾沌的局面(一種の〈器官なき身体〉)を
他方には分断された身体諸器官の浮遊の
ルドン的かつラカン的局面を看取しながら彼は言う。
一方の未規定なものは全く無差異的であるが、
しかし他方の浮遊する諸規定も、
未規定なものに劣らず互いに無差異的である。
では差異(différence)は、
それら二つの極の「あいだ」に介在しているのだろうか。
あるいはむしろ、差異こそが、唯一の極(extrême)、
すなわち現前と明確さ(précision)の唯一の契機ではないだろうか。
(ジル・ドゥルーズ『差異と反復』第一章 邦訳P57)
entre-deuxが一方的に極化することを通じて
一つの顔が〈距〉として際立って立ち上がりつつあることを
ドゥルーズもまた観測している。
わたしという二人は一方の人格=瞬間性によって代表されるのだが、
しかしそれは大急ぎで言わなければならないが
どんな表象代理(réprésentation)もなしに
権力を直接的に掌握しているのである。
ドゥルーズはこの事態を、
ゲシュタルト図形において
図が地からまず非対称的に浮き上がってくることになぞらえている。
確かにゲシュタルト図形は反転可能なものである。
地のなかへ図が沈むこともありうる。
このような場合は例えば、ハイデガーにおけるような
死の不安の浮上による世界の滑落というような事態を招くだろう。
しかし、ドゥルーズとともにわたしが言わんとするのは
そのような反転ないし転覆可能性があるにもかかわらずの
まず反転しないでいることの原初冒頭の状態(état-initial)
または第一原因(最初の場合cause-initiale)、
イニシャルとイニシアティヴのことなのである。
わたしは非人称の存在の影に沈み、
とりこまれることなくして頭ひとつ先に抜きん出て、
稲妻のように暗天に浮き立つのだ。
確かにドゥルーズも認めるとおり、
稲妻は暗天を己れと共に引きずってゆかざるをえず、
背景(fond 地/基底)は背景であるがままに
表面に出てくるのだとしても
それは差をつけている(faire la différence/差異を作る)。
そのようば残酷さ
(わたしは寧ろ風流の冷酷さと呼びたいようなla cruauté)でまずある。
図は地から、形相は質料から、
形態は素材から、形式は内容から、
人格は存在から浮き立つ。
背景がすぐに追いつくとしても、
そして追いつく背景の中で顔が崩れ潰れるとしても、
崩潰する顔の漸消を見つめる
もうひとつ別の頭が闇を追い越して盛り上がるのだ。
ルドンのキアスクーロが描き出す最高の形態は
あの驚くべき無限を開示する眼球なのである。
ドゥルーズと共にルドンとゴヤの素晴らしい美術館をくぐり抜けながら、
人格はアルトーの偉大な言葉と共に誕生する。
それは崩潰の残忍さを越えいでる何かしら冷酷なものである。
人格は冷酷なものとしてその尊厳を委ねられて
何かしら不死的に誕生する崇貴いものである。
しかしそれは一種の差異の内にいることとしての
無関心(in-défference)なのだ。
この人格の概念は
例えばレヴィナス的=倫理的ではない。
むしろ運命論的なものである。
(1996/2/21記)
離脱として突出しつつあるような何かだ。
apostaseは距離を意味するギリシャ語であり、
それはapostasia(背教)を派生させる
何か根本的な異端化を記述している。
異端とはある種の頭角、まず突出してくる〈距〉のことである。
〈距〉とは踏み出すこと、足を前へと突出させ、
体重を移動させること、極の移動である。
〈距〉は未だ測定可能な距離とはならない距離それ自体の開始である。
異端であり逸脱である距とは
概念(con-cept)の範囲から食み出し、
外(ex)へと突き出す発芽のようなものだ。
それは空なる外をまさぐるさまよいのはじまりの意識である。
距という異端は一方の端であり、
そこではもう一方の端は
まだそれに抵抗するものとして後方を形成してはいない。
一つの端しか持たないような距離は無限の裾野を背後に広げる。
距離はどこからどこまでという形では不確定だが、
それでも〈距〉という異端、
あるいは前衛(avant-garde先鋒/尖端)という前進性において、
progressivitéにおいて、
形(progressif)において、
わたしの人格〈moi〉は
現在進行形の距離形成として
progressivementに(漸進的に累進的に進捗的に数列的に徐々に)
自己同一性よりも強度な
わたしの進歩(progres)としてのわたしを
明確に刻印しているのである。
とはいえ、それは内容ではないのだ。
内容的な明確さ/明晰さとしてではなく、
むしろまだ閉ざしえぬ境界の開けとして、
明晰さの未完の開始として、
明晰さの始まりとして、
その終わりなさとして、
人格は、超存在的に、そして前同定的に、
還元不可能な変わったものとして突出的に己れを目立たしめ、
派手やかに、自己提起的に、
自己に先行して顕在化するケテル的なもの、
ツィムツーム(自己収縮)なき創出なのである。
自我という人格性はこのような際立つものとしての
一方的な区別としての規定作用である。
つまりそれは一種の決断力であり、
或る種の未知数の決定でもあるというような意味で
規定作用détereminationなのだが区別を示すdistinctifなもの、
はっきりと識別される弁別特徴trait distinctifをもつものなのである。
〈距〉とはこのような非対称的な際立ち(distinction)である。
奇しくも(寧ろ必然的にというべきか)
ちょうどこれと同じことを
ドゥルーズは『差異と反復』の第一章(邦訳書P57)で語っている。
無差異(indéfference)というものの
二つの様相(aspect)について語っている箇所で、
一方に未分化な渾沌的局面(一種の〈器官なき身体〉)を
他方には分断された身体諸器官の浮遊の
ルドン的かつラカン的局面を看取しながら彼は言う。
一方の未規定なものは全く無差異的であるが、
しかし他方の浮遊する諸規定も、
未規定なものに劣らず互いに無差異的である。
では差異(différence)は、
それら二つの極の「あいだ」に介在しているのだろうか。
あるいはむしろ、差異こそが、唯一の極(extrême)、
すなわち現前と明確さ(précision)の唯一の契機ではないだろうか。
(ジル・ドゥルーズ『差異と反復』第一章 邦訳P57)
entre-deuxが一方的に極化することを通じて
一つの顔が〈距〉として際立って立ち上がりつつあることを
ドゥルーズもまた観測している。
わたしという二人は一方の人格=瞬間性によって代表されるのだが、
しかしそれは大急ぎで言わなければならないが
どんな表象代理(réprésentation)もなしに
権力を直接的に掌握しているのである。
ドゥルーズはこの事態を、
ゲシュタルト図形において
図が地からまず非対称的に浮き上がってくることになぞらえている。
確かにゲシュタルト図形は反転可能なものである。
地のなかへ図が沈むこともありうる。
このような場合は例えば、ハイデガーにおけるような
死の不安の浮上による世界の滑落というような事態を招くだろう。
しかし、ドゥルーズとともにわたしが言わんとするのは
そのような反転ないし転覆可能性があるにもかかわらずの
まず反転しないでいることの原初冒頭の状態(état-initial)
または第一原因(最初の場合cause-initiale)、
イニシャルとイニシアティヴのことなのである。
わたしは非人称の存在の影に沈み、
とりこまれることなくして頭ひとつ先に抜きん出て、
稲妻のように暗天に浮き立つのだ。
確かにドゥルーズも認めるとおり、
稲妻は暗天を己れと共に引きずってゆかざるをえず、
背景(fond 地/基底)は背景であるがままに
表面に出てくるのだとしても
それは差をつけている(faire la différence/差異を作る)。
そのようば残酷さ
(わたしは寧ろ風流の冷酷さと呼びたいようなla cruauté)でまずある。
図は地から、形相は質料から、
形態は素材から、形式は内容から、
人格は存在から浮き立つ。
背景がすぐに追いつくとしても、
そして追いつく背景の中で顔が崩れ潰れるとしても、
崩潰する顔の漸消を見つめる
もうひとつ別の頭が闇を追い越して盛り上がるのだ。
ルドンのキアスクーロが描き出す最高の形態は
あの驚くべき無限を開示する眼球なのである。
ドゥルーズと共にルドンとゴヤの素晴らしい美術館をくぐり抜けながら、
人格はアルトーの偉大な言葉と共に誕生する。
それは崩潰の残忍さを越えいでる何かしら冷酷なものである。
人格は冷酷なものとしてその尊厳を委ねられて
何かしら不死的に誕生する崇貴いものである。
しかしそれは一種の差異の内にいることとしての
無関心(in-défference)なのだ。
この人格の概念は
例えばレヴィナス的=倫理的ではない。
むしろ運命論的なものである。
(1996/2/21記)