存在概念の自明視に対するハイデガーの批判(『存在と時間』第一編第一章第一節)はよく知られている。しかし、可能性概念の自明視の方こそがむしろ問題なのである。
例えばハイデガーは『存在と時間』の序論のなかでフッサールの『論理学研究』から継承した己れの現象学的方法について論及しつつ次のように書いてしまう。
現象学の本領は、哲学の一流派として現実的に存するという点にあるのではない。現実性より高いところに、可能性が立っている。現象学の理解は、ひとえに、現象学を可能性としてつかみとることのなかにある。(細谷貞雄訳)
たしかにそれはその通りではあるだろう。
現象学は可能性の学でしかありえない。
メルロ=ポンティ的な〈われ能う故にわれ在り Je peux, donc je suis〉の定式、それが現象学なのだ。
可能性と不可能性の間を限界確定しつつ可能性の内に留まること、或いは可能性の内に己れの存在根拠をつかみとること。
可能性の優越性の中に現象学というものは発想されているのである。
* * *
ハイデガーは存在を絶対的超越(das transcendens schlechthin)であるとし、その普遍性をあらゆる類的普遍性以上のもの、類と種差によって分類可能な全ての存在者とその存在的規定性を越えたところに位置付ける。
現存在の存在の超越は、そのなかにもっとも根底的な個体化の可能性と必然性とが伏在しているかぎり、殊別的な超越である。transcendens(超越)としての存在を開示することは、すべて、超越的認識である。現象学的真理(存在の開示態)は、veritas transcendentalis(超越的真理)である。(同上)。
ハイデガーにとって、現存在はまずおのれの可能性を存在する存在者である。
超越的なものとは可能性である。
現存在は存在する以前に可能なのである。
可能であるが故に存在するのである。
ひとごとでない自己の存在可能へむかって存在しているということは、存在論的にみれば、現存在はその存在において、いつもすでにおのれ自身に先立っている、ということを意味するのである。(第1編第6章第四一節/同上)。
この〈おのれに先立つ存在〉(das Sich-vorweg-sein)とは、存在可能(Seinkönnen)としての存在、現実存在する以前に存在可能している存在である。
現存在の存在性格は〈可能性〉なのである。
わたしは現実にわたしを在る以前にすでにわたしであることの可能性、可能性における〈わたしはある〉として超越的にある。
〈いつもすでに〉というハイデガーの口癖のような言い回しは、存在に先立つ存在可能への言及であり、存在をむしろ可能性から捉えようとするハイデガーの思考の習性を物語るものなのだ。
現に在る以前に人は既に可能的にこそ在る。
むしろこの可能性こそが存在(Sein)なのである。
ところで不可能である、つまり何かについて可能性=能力を有さない、即ち無能であるという判定は人を怒らせる。
人間にとって可能性は必要なのであり、それはなくてはならないもの、必須のもの、つまりいつもそれは欠乏しているものなのである。
換言すれば、可能性は必然的なものなのである。
それは人間の必須条件すなわちアリストテレス的にいうなら、〈それなくしてはありえないそれ〉(hou aneu)として、現実存在するに先立って、先行的に人間を規定している。
つまり、存在するに先立って、人間はまず可能的であらねばならないのだ。
可能性を有するか有さないかの問い(所有論)は、存在するか存在しないかの問い(存在論)に先立って与えられていながら、見えない問いとなっている。
有るか有らぬかは、存在するか存在しないかに先立って、問われることなく答えられてしまっている(自明化されてしまっている)。
ハムレットの問い、To be or not to be, that is the question は確かに疑問である。
しかしここで疑問というのは、問題つまりproblemという意味でいっているのではない。
その問が問題であることそれ自体が疑わしい謎を孕んでいるのだといいたいのである。
例えばハイデガーは『存在と時間』の序論のなかでフッサールの『論理学研究』から継承した己れの現象学的方法について論及しつつ次のように書いてしまう。
現象学の本領は、哲学の一流派として現実的に存するという点にあるのではない。現実性より高いところに、可能性が立っている。現象学の理解は、ひとえに、現象学を可能性としてつかみとることのなかにある。(細谷貞雄訳)
たしかにそれはその通りではあるだろう。
現象学は可能性の学でしかありえない。
メルロ=ポンティ的な〈われ能う故にわれ在り Je peux, donc je suis〉の定式、それが現象学なのだ。
可能性と不可能性の間を限界確定しつつ可能性の内に留まること、或いは可能性の内に己れの存在根拠をつかみとること。
可能性の優越性の中に現象学というものは発想されているのである。
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ハイデガーは存在を絶対的超越(das transcendens schlechthin)であるとし、その普遍性をあらゆる類的普遍性以上のもの、類と種差によって分類可能な全ての存在者とその存在的規定性を越えたところに位置付ける。
現存在の存在の超越は、そのなかにもっとも根底的な個体化の可能性と必然性とが伏在しているかぎり、殊別的な超越である。transcendens(超越)としての存在を開示することは、すべて、超越的認識である。現象学的真理(存在の開示態)は、veritas transcendentalis(超越的真理)である。(同上)。
ハイデガーにとって、現存在はまずおのれの可能性を存在する存在者である。
超越的なものとは可能性である。
現存在は存在する以前に可能なのである。
可能であるが故に存在するのである。
ひとごとでない自己の存在可能へむかって存在しているということは、存在論的にみれば、現存在はその存在において、いつもすでにおのれ自身に先立っている、ということを意味するのである。(第1編第6章第四一節/同上)。
この〈おのれに先立つ存在〉(das Sich-vorweg-sein)とは、存在可能(Seinkönnen)としての存在、現実存在する以前に存在可能している存在である。
現存在の存在性格は〈可能性〉なのである。
わたしは現実にわたしを在る以前にすでにわたしであることの可能性、可能性における〈わたしはある〉として超越的にある。
〈いつもすでに〉というハイデガーの口癖のような言い回しは、存在に先立つ存在可能への言及であり、存在をむしろ可能性から捉えようとするハイデガーの思考の習性を物語るものなのだ。
現に在る以前に人は既に可能的にこそ在る。
むしろこの可能性こそが存在(Sein)なのである。
ところで不可能である、つまり何かについて可能性=能力を有さない、即ち無能であるという判定は人を怒らせる。
人間にとって可能性は必要なのであり、それはなくてはならないもの、必須のもの、つまりいつもそれは欠乏しているものなのである。
換言すれば、可能性は必然的なものなのである。
それは人間の必須条件すなわちアリストテレス的にいうなら、〈それなくしてはありえないそれ〉(hou aneu)として、現実存在するに先立って、先行的に人間を規定している。
つまり、存在するに先立って、人間はまず可能的であらねばならないのだ。
可能性を有するか有さないかの問い(所有論)は、存在するか存在しないかの問い(存在論)に先立って与えられていながら、見えない問いとなっている。
有るか有らぬかは、存在するか存在しないかに先立って、問われることなく答えられてしまっている(自明化されてしまっている)。
ハムレットの問い、To be or not to be, that is the question は確かに疑問である。
しかしここで疑問というのは、問題つまりproblemという意味でいっているのではない。
その問が問題であることそれ自体が疑わしい謎を孕んでいるのだといいたいのである。