【1】〈影響〉は根源的な関係性である。〈影響〉を通して、〈非在〉は〈不在〉を支配し、そこに充満する。両者は切り離すことのできない癒合状態にある。この関係性は関連性(reference)である。
 〈不在〉は己れを〈非在〉に関連のあるものとしてのみ示す。すなわち〈不在〉は、己れを〈非在〉に帰着するべきものとして、〈非在〉の〈影の響き〉としてのみ広がるのである。

【2】〈影響〉は起源の問題を提起している。
 〈不在〉は、必ず不在である〈誰か〉や〈何か〉の不在であり、それへの導き、誘導、注意、指示にして言及だからである。
 〈不在〉は必ず否認され〈非在〉となった何者かの忘却的な回帰である。
 〈原存在忘却〉は、〈非在を想起せよ〉という虚ろな谺〔エコー〕となって不在に反響〔レゾナンス〕する。
 〈影響〉とは、〈影〉にしてその〈響き〉である。
 〈影響〉は、不可視のものの〈ある〉を、それが不可視であるにもかかわらず立ち戻らせ、何か迫り来るものの気配を無気味に充満させる。〈影響〉とは、背後への言及であり、背後への誘惑である。それは背後への促しとしてのみある。

【3】〈非在〉における直接的他者は、〈影響〉にあって間接化されている。〈影響〉は〈非在〉からの影響として、間接的に〈非在〉を〈不在〉において代弁している。

【4】〈影響〉は〈非在〉からの〈流出(emanatio)〉である。この〈流出〉は〈非在〉からの問いかけとしてやってくる。
 〈影響〉は、最初の問いを発する。

【5】非在する不可能性自体の問いかけ、すなわち〈非在するというそのわたしは誰か〉は、〈影響〉を通して思考に反問するが、決してそのあるがままには届かない。
 〈影響〉とは間接話法(indirect discourse, indirect narration)だからである。間接話法からこそ、むしろ思考に対する最初の問いは思考に聴こえる響き=語調〔トン〕となりうる。
 しかし、このとき反問にはありえたであろう他者の詰問口調は還元=削減されている。〈影響〉とは〈還元(reduction)〉だからである。この還元は、現象学的還元に先行する還元にしてエポケーである。

【6】矛盾律(principium contradictionis)は不可能性の還元、〈ありえないが故に〉つまり不可能性を虚偽の根拠として、不可能性に基づいてなされる矛盾(antiphasis)の還元である。
 背理法(帰謬法 reductio ad absurdum)は、その別名を不可能性への還元ないしは不可能性に従っての還元(reductio ad impossibile)という。
 背理法は間接証明ないし間接還元法とも呼ばれる。証明しようとする命題の反立、つまりそれと矛盾する命題を真と仮定すると、矛盾が生じてくることを示すことによって、原命題が真であるということを証明する方法である。
 これは原命題には触れることなく、それを全く無傷のままに真ならしめるやり方なのだが、要するに、矛盾律の応用である。
 矛盾律とは、背理法の根拠にしてその最も基礎的なもの、つまり本来の意味における背理法なのである。

【7】〈影響〉は間接的他者として間接話法でのみ語る。この間接性は、矛盾律=背理法の本質である不可能性の還元、すなわち、不可能性自体の還元がもたらす原残余である。

【8】不可能性自体は虚偽の根拠として虚偽の論理学である背理法を基礎づけている。

【9】間接的他者である〈影響〉は、大前提である不可能性自体の撤退によって開かれる〈不在〉に残余する虚偽のための小前提=仮定(assumption)となる。

【10】背理法による推理を実質的に可能ならしめるのは、この仮定の他者、〈影響〉の機能的な間接性による。

【11】背理法は間接的命題の虚偽なることの証明が必然的に原命題の真理なることの証明の代理になるという信念に基づく。
 しかし、実はこれはいかがわしいすりかえであり、根本的な論点窃取(assumptio non probata)の原虚偽である。

【12】〈非在〉とされた不可能性自体は〈語りえぬもの〉である以前に、言葉を剥奪されたもの、沈黙させられたものである。

【13】《語りえぬものについては沈黙せねばならない》(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』七)について言えることは、それこそが愚劣であるということだけである。
 したがって、この反論考的考究は、思考の表現に対してではなく、思考に対してこそ限界を引こうとする。こう言い換えたのは、もし思考に対して限界を引くのだとすれば、このためには、われわれがこの限界の両側を思考しなければならなくなる(したがって思考不可能なことも思考しなければならなくなる)からである。
 したがって、思考の限界といわれているものは言語のなかでこそ引き裂くことができる。そして限界の此岸にあることはそれこそが全くの無知蒙昧かつ無価値であることが明白になるであろう。確かにおよそ語られ得ることは明晰(clara)に語られ得るが、それが何だというのである。
 むしろ語られねばならないことは、それが曖昧(obscura)にされていることであっても、判明(distincta)に語られねばならない。逆に《cogito ergo sum》と自己表明する意識こそあらゆる紛糾(confusa)の種だからである。真に判明なものにとっては、明晰な意識の内なる紛糾の根底にはその明晰さそれ自体の曖昧さが洞察せられているからである。

【14】〈不在〉は〈非在〉の間接化(indirection)であり、副次的なもの、遠回しである。それは不正で曲がった空間であり、根本的に詐欺的である。

【15】〈影響〉は不可能性自体の間接的影響=効果(indirect effect)にして、間接的証拠(indirect evidence)である。
 〈影響〉は、不可能性自体のことを遠回しに迂回的に言う(make an indirect reference to the Impossible in itself)。

【16】〈影響〉は、主語=主体(subjet)としては否認ないし面会謝絶されてしまった不可能性自体の目的格にされてしまった代理人(agent)である。あるいは間接目的語に、動作主補語(complément d'agent)として、不可能性自体の、しかしそれを名指すことを禁じられた主、主格なき代名詞である。或る意味では、それこそが最初の代名詞である。

【17】〈不在〉の間接性(indirectness)は、〈非在〉の直接性(directness)から引き出されているが、それはまだ直接性の内(in directness)にあると看做さねばならない。それは〈非在〉へと方向づけられ、そこに宛先をもつ。ここに〈非在〉のdirection(指揮命令、方向、傾向、監督 /cf.Latin directum, dirigere)が働いている。

【18】〈不在〉の間接性は、もはや直接性であるとはいえないが媒介的であるともいえない。それは何者によっても媒介されていないからである。
 〈不在〉の間接性は、無媒介的に直ちに〈非在〉の直接性に差し向けられつつそこに癒着している。