エルサレム、一九九三年一月。あの世界で最も美しく痛ましい都市を訪れたとき、異邦人であるわたしはその壁の遺跡に縋って泣いた。

 拙い祈りと願いのことばを書きつらねた小さな紙片を灰色の壁石の間に差し挟んだとき、わたしは無言の神の足元に縋り付く、小さなみすぼらしい無力な子供のように孤独だった。胸の中からこみあげてくる苦く熱い涙をせき止めるものは何もなかった。おまえの祈りを聞き届けたと言ってくれる神のやさしい手のぬくもりほの明るい声や息もわたしにはかからなかった。

 そこには神はいなかった。神は全くそこにはおらず、ただ孤独なわたしがいた。孤独に閉じこもって答えぬ壁に頭を打ち付け、さまざまな祈りをそこにおいてゆく他の孤独な人々がいた。

 神はいない。人々が置き去りにしてゆく祈りだけがそこにある。そして祈りの紙片はやがて壁石の間で朽ちてゆく。紙片に書き連ねられた文字は風化し、色あせて、やがて黙した時の砂漠のなかにうっすらと消えうせてゆく。そのとき祈りはかなうのだろうか。そのうすよごれた文字が忘却の白さのなかに透き通って消えて行くとき、一瞬きらめく風のひらめきのなかで、神よ、あなたは、そのきわめて微かな臨在の光芒をわたしたちにお示しになるのだろうか。

 奇妙なことだった。その思いがかすめたとき、そこに決していらっしゃらない神の御心とわたしの心が触れあった。きらめき、限りない彼方での風のきらめき、風のなかできらめく限りなく小さな砂粒の上で、わたしは神とすれ違った。このすれ違いが出会いだった。その顔は見えなかった。けれどもその体のふしぎな感触をわたしは生涯決して忘れることはないだろう。

 その一瞬のきらめきのなかでのかぎりもなく静かな邂逅。消えうせるその邂逅のなかで、わたしは知った。あなたを愛している、わたしはあなたを永遠に愛しているということを。あなたが誰であるか永遠に知ることはないけれど。この命も体も魂もあとかたもなく風前の塵に消えうせてしまっても、きらめき、わたしが消え、あなたが消える、その無のひらめきのなかで、わたしはあなたを永遠に愛するだろう。

 これは信仰でもなく、知識でも、確信でもない。神秘ではなく、法悦も恍惚もない、そこには全く何もない。

 では、この奇妙な神の体験は一体何を意味するというのだろう。一体何がそのときわたしの身に起こったのか、今もってわたしには分からない。分からないのに、そのとき、その不可思議などこでもない場処を姿もなく通り過ぎていった神はかぎりもなく美しいものだった。美しいものがきらめいて過ぎ去っていった。わたしは神を通り過ぎ、神はわたしを通り過ぎる。その間に切り結ぶものは何もない。対面もなければ契約もない。取引もなく、そして、交わす言葉もありえなかった。

 それは、見渡すかぎり何もない明るい砂漠を旅する途上で、姿すらもみえぬふしぎな遠い蜃気楼か陽炎のような人影と、まるですれ違ったというその感触じたいが錯覚であるかのような微かさで、すーっとすれ違ったかのようなものだった。

 お互いに顔を見合わすこともない。相手に顔があったかどうかさえわたしは知らない。わたしは呼び止めようともせず、相手がわたしの遠い傍らを通り過ぎるにまかせた。向こうがこちらに気づいたかどうかさえわたしにはどうでもよいことだ。たがいに全く無関心で、無関係に、まったく別々の道を歩み、何の接触もなく、相手のことにはまったく構わず、すれ違うだけ。

 そのときに、わたしは感じ、そして知った。わたしは自由である、と。神とわたしの間にあったのは完全に自由な関係だけであった。わたしには彼に罪がないように、彼もまたわたしにどんな罪もない。それがわたしのような異邦人との間にありうる唯一の奇妙な〈契約〉であるのかもしれない。

 そこには厳しい掟や戒めはない。復活と救済の恩着せがましい愛の呪縛もない。あるものは美しいひとすじの髪の毛より細いきらめきだけであった。しかし、このきらめきの契約は、それ以上にすばらしい、最も神聖で最も至高の契約であった。このきらめきの意味は、友愛である。自由で、透明で、虚偽のない友愛である。

 その友愛を受け取ったとき、わたしは深い真実の慰めと幸福感に満ちた感動を覚えた。神はわたしにかぎりなく美しく大きな恩寵を下さったのだ。彼はわたしにこう約していたのである――あなたを、いかなるかたちでもわたしは支配しない。あなたがわたしを愛するように、わたしもあなたを永遠に永遠に愛している。あなたに平安あれ。

 そして、あなたにも平安あれ、すばらしい神よ。わたしはあなたに会ったことを永遠に永遠に忘れないだろう。さようなら――さようなら。

 このようにして、祈りのつくりだした不可思議な空間が尽き果て、そして、祈りの尽き果てる彼方の時が永遠のなかに消えうせたとき、わたしのなかに、わたしを完全な許しのうちに過ぎ越していった神の痕跡が、三つのやさしく美しい言葉として残った。それは、〈愛〉〈平和〉〈永遠〉というたった三つの単語である。

 それが自由な友愛の契約のすべてを構成し、かたく結び付いてクリスタルのように透明にわたしの心に結晶していた。それは生きていた。それはわたしのいのちであった。わたしのいのちは神に吹き込まれた息によって生きていた。それは神のくれたいのちである。その命を生きよ、あなたの生命を生きよ、あなたがあなたを生きるとき、神はあなたを生きる、あなたは神を生きているのだ、神があなたと共にいることを忘れてはいけない。

 わたしはわたし自身の心臓に驚いていた。わたしの心臓は透き通ったクリスタルのように透明で美しく、その中心に神の火が熱く燃え、知性あるもののように、わたしにそう話しかけているように思われた。それは幻聴でも何でもない。わたしの鼓動が聞こえたに過ぎない。だがわたしにはその心臓の動悸の意味する優美で崇高な意味が、ふいに、頭の中で解けたのだ。

 わたしは長い死の眠りから醒めた者のように目を開き、周囲を見渡した。泣き濡れた頬の涙痕を、びっくりしたように眺めている眼鏡をかけた髭の長い正統派らしい黒っぽい服を着たユダヤ人男性の目を丸くした怪訝に首を傾げた心配そうな顔が最初に見えた。

 神など別に信仰しているような風情のない得体の知れない東洋人の、見るからに不真面目な風体の(わたしは黒いショットの皮ジャンに黒いロンドンスリムのジーンズという余り聖地にふさわしからぬロック青年風のスカした格好をしていた)物見遊山の観光客が、誰も泣かない嘆きの壁で、ふいに何かに憑かれたように壁に抱き着いてシクシク泣き出したことが、感動的だったというより、たんに不可解で奇怪だったのだろう。彼はヘブライ語なのか下手糞な英語なのかよく分からないことばで、多分「おいおい、大丈夫かい」という程の意味なのだろう、何かわたしに話しかけ、両手を不器用に差し出して、困ったような顔をしていた。