Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 3-7 蜜蜂の女王

[承前]




 一方裏切り者のユダとなったアポロンはキリスト教徒の心を掴むことがうまかった。
 彼はアルテミスを貶めるという共通の利害から、タティアヌスという二世紀のキリスト護教論者にこう言わせることに成功していた――アポロンは治癒する神だが、アルテミスは有毒の神だと。
 治癒神アポロンはその後聖人ベネディクトスの姿に化けてまんまと延命を果たした。


 アルテミスは蠍や蝮のようにキリスト教徒から忌み嫌われ、その崇拝者は徹底的に弾圧を受けた。
 夜のディアーナは恐ろしい淫らな魔女の神とみなされ、中世の闇を支配した。
 崇拝者たちは森に隠れ人目を忍んで、しかし、かつての偉大なエフェソスの魔術の主催神を拝み続けた。異端審問官たちは魔女を狩ったが、狩人の守護神ディアーナは森の中に巧みに逃げ込み隠れ住み、根強く生き続けた。


 デメトリオスの名は、十九世紀のドストエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』の長男ドミトリーとなってふいに近代に現れる。
 母なる大地を愛するこの男は、父親を殺したという無実の罪を着せられる。
 彼は高潔で好感の持てる人物。しかしまた実際に父親を憎んでいた。
 彼は女を愛し、強い情欲の化身でもある。だが断じて悪人ではない。
 生き生きとした自然がこの男の心の中に広がる。
 彼は古い母権制社会の魂を持つ、明らかに大地母神系の人物で、ドストエフスキーがその生涯の最後に見いだした一番根源的でまた最も力強いアンチクリストだった。


 ドストエフスキーはさまざまな異端思想を追及して最後に異教の女神を発見した。
 ドミトリー――デメトリオスの名は大地母神デメテルに由来する。
 そしてエフェソスの地で崇拝されたアルテミスは、ギリシャ神話で知られる処女の姿によってではなく、豊かな大地の女神キュベレーの姿をしていた。


 エフェソス人のアルテミス像は、胴体いっぱいに豊かな乳房をまるで葡萄の房のように実らせた姿で知られた。その乳房の多さは見ているとなんだか蜂の巣でもみているような気分になる。
 そして、実際、アルテミスの聖都であるエフェソスの紋章はミツバチであった。


 ミツバチはアルテミスの象徴。
 ヨーロッパの言い伝えでは、もとは天国に住んでいた小さな翼をもった《虫の天使》だったが、楽園追放のとき、その本来の純白の姿を失い、今のように茶色い姿に変わってしまったのだという。それでも、現在、《鷲》と共に天国に入ることのできる唯一の聖なる生物であり続けている。


 ミツバチには不思議な性質がある。彼らは8の字に輪を描いて踊る。
 わたしたちの国語がどういう巡り合わせか、アラビア数字を用いるずっと以前から、彼らは自分たちの名前である《ハチ》をアラビア数字の8で示し続けてきた。
 それはわたしたちの歴史学がすっかり忘れてしまった遠い昔の大陸時代の記憶からやってくるのか、それとも遍在するアルテミスの魔力に由来するのか、とても奇妙な語源学〔エチモロジー〕の次元がひっそりと横たわっていることを予感させる現象だ。


 8はインドで聖数であり、またインドはゼロと無限という特殊な数を生み出した土地でもある。
 実際に数学的な概念としては不思議で奇妙な数である0と∞。
 8はこのゼロの輪の象形文字をメビウスの帯の不思議なかたちに捩ったものであり、また8と無限の記号はただ縦横の方向が違うだけで実は全く同じかたちをしている。
 8は無限を表す聖なる数であり、ミツバチは8の字を描いて回る。


 右回りから左回り、それからまた逆に。