Hic sapientia est: qui habet intellectum, computet numerum bestiae; numerus enim hominis est: et numerus eius est sescenti sexaginta sex.

 

 (Apocalypsis Ioannis 13-18)

 

『ヨハネ黙示録』は告げている。

 

「ここに知恵がある。知性有る者は獣の数字を数えよ。この数値は即ち人間の数値であり、その数値は六百六十六。」

 


 つまり〈獣〉とは〈人間〉を意味する。
 謎の数字六六六、それは〈人間〉を、つまりわれわれを指している。

 だがそれにしてもそれは誰なのか、われわれとは? 

 それは何を意味するのか、〈人間〉とは?


 上に引用したラテン語訳文において〈人間〉は〈ホモ(homo)〉と呼ばれている。

 それはギリシア語源のことばで、元来〈homos〉つまり「同じ」という程の意味の語から生じた。

 ラテン語のホモというのは「同類」という原義から転じて人を意味するようになった語である。


 ところがギリシア語原文では〈人間〉は〈アントロポース(Anthropos)〉と呼ばれている。

 それはプラトンの『饗宴』に出演するアリストファネスによれば、現在男女両性に別れる以前に男=男、女=女、男=女(アンドロギュノス)の一心同体の結合体からなる三種類の原人であったところのものである。

 そのそれぞれが半分に引き裂かれて、今日のような不完全な半分だけの人間になったのだという。

 またアリストテレスによればアントロポースは「理性的動物」つまり〈獣〉の一種である。


 ホモとアントロポース。

 それは同じ〈人間〉であるということができるのか? 

 〈同類〉と〈異性的分裂体〉、

 〈同類〉と〈獣の一種〉は、

 果たして同じ〈人間〉であるということができるのか。

 果たしてそれは同一人物であるといえようか。

 それともこの両者は別人であるのだろうか。


  *  *  *


 「それは同じ人間ではない。同じ人間ではありえない」

 ファニー&ジル・ドゥルーズ夫妻(男と女)は、

 D・H・ロレンスの死を前にした最後の著作『アポカリプス論』の

 仏訳序文「ニーチェと聖パウロ、ロレンスとパトモスのヨハネ」の冒頭を

 その言葉から書き起こしている。

 無論それはホモとアントロポースが同じ人間ではないという意味の言葉ではない。

 それは直接的には『ヨハネ福音書』の著者のヨハネと『ヨハネ黙示録』の著者のヨハネ、

 この同名の固有名ヨハネは同名同人(同名同義語)であるのか

 同名異人(同名異義語)であるのかを巡る論議に対して、

 それは同名異義語つまり別人=同名異人を指示する固有名だと言っているのである。


 ホモとアントロポースの間には込み入った翻訳の問題が介在している。

 しかしこのヨハネの固有名のケースでは、

 そのような意味での翻訳の問題は存在してはいない

 (固有名はところで一般に翻訳されないということになっている)。

 少なくとも単語レベルでは。そして言語学でいうラングの次元においては。


 だが翻訳の問題は、単に二つの異なる外国語間での、

 それぞれ言語学的=ソシュール的意味での共時体系〔シンクロニシティ〕において

 正確な意味をやりとりすることの難しさを意味するだけのものではない。

 翻訳の問題はその「シンクロニシティ」の意味そのものが

 怪しくなってしまう怪奇現象を抜きには語れないのだ。


 ソシュール的な概念である筈のシンクロニシティが

 いつの間にやらその同音異義語、すなわち

 ユング的な概念であるシンクロニシティを意味するものに

 するりと変容してしまうとても気味の悪い黙示録的瞬間を味わう羽目になる。


 晩年ソシュールが「アナグラム」という、半ばユングのような、

 そして、まさに黙示録的でもカバラ的でもあるものの研究に

 引き込まれていったことを彷彿と思い出すとき、

 そこに何か足元が危うくなるような

 怪しげな符合の思わせ振りな目くばせを感じずにはいられない。


 しかしこの問題には今は立ち入るまい。

 わたしたちは前に引き返さねばならない


  *  *  *

 

 「それは同じ人間ではない。同じ人間ではありえない」

 という言葉はこれ自体が同名異人を指摘する命題文である。


 わたしはそれを偶然にドゥルーズの著作から発見してここに拾い出した。

 ちょうどホモとアントロポースが同じ人間であるだろうかと書いていたところだった。

 それはまさに黙示録的出来事という奴だ。

 一体このシンクロニシティは何を言わんとしているのだろうか。


 ところで、ホモとアントロポースが別人であることと、

 福音書のヨハネと黙示録のヨハネが別人であることと、

 それは単に同名異義的に「別人であること」なのだろうか。


 それは福音書のヨハネと

 黙示録のヨハネ(獣をアントロポースと書いたギリシア語の著者)と

 その黙示録をラテン語訳して獣を同類のホモにした翻訳者が

 重なり合う一連の別人であることである。


 その黙示録をめぐるロレンスの著作の翻訳者である

 ドゥルーズ夫妻の著作の翻訳をわたしは読み、

 その冒頭から

 「それは同じ人間ではない。同じ人間ではありえない」

 という言葉を抜き出したが、

 このこと自体が「黙示録」という

 奇妙な魔力を秘めた書物の不可思議な影響の広がりに

 参入するということに他ならない。


 * * *


  ところで

 「それは同じ人間ではない。同じ人間ではありえない」

 というこの奇妙な呪文めいた言葉はドゥルーズ夫妻の言葉ではない。

 これはロレンスの見解でありロレンスの言葉である。


 ロレンスは愛に満ちた『福音書』と

 憎悪に満ちた『黙示録』はとても同じ人間の書いたものとは思えない、

 同一人物にこれ程相反する精神が宿ることなどありえない、

 それはまるで別人のようであるから別人だということを言っている。


 重要なのは『福音書』のヨハネと『黙示録』のヨハネが

 事実において数的に区別された二人の個人であるかどうかという問題なのではない。


 『黙示録』が『福音書』の著者ヨハネの名前を名乗りながら、

 それと単に似ても似つかないどころかあからさまにそれを裏切り、

 優しきヨハネの顔を引裂き、冒涜的な鬼の顔を剥き出し、

 自ら積極的に別人であることを積極的に表現しているから

 「同じ人間ではありえない」のである。


 ロレンスが言いたいのは

 数的・事実的・実体的な「量的別人」のことではないのである。

 たとえ両者が事実において同一人物であったとしても

 やはり「同じ人間ではありえない」と言わざるを得ないような、

 印象的・様相的な「質的別人」のことを言っているのである。


  *  *  *


 ところで『黙示録』は

 神に敵する異教的反逆者六六六をアンチクリストとして指弾している。


 しかし、アンチクリストとは寧ろ

 憎悪に満ちた『黙示録』の書き手パトモスのヨハネの方ではないだろうか。

 逆に六六六こそが愛に満ちた豊かな心の持ち主として到来するのかも知れない。


 それは真の本来の愛の宗教であるキリスト教を取戻そうとして出現するのかも知れない。

 六六六は敢えてアンチクリストを名乗る或る種のキリストであるのかもしれない。


 『黙示録』のキリストは

 『福音書』のキリストからは想像もつかぬような

 恐ろしい野蛮さで像を裏切る。

 その恐ろしさはまるで別人のようである。


 そうであるなら『黙示録』の予言する

 アンチクリストの現実への出現は

 逆の仕方でまるで別人のようであるのかも知れない。


 否、まさにそのような六六六をわたしは創造したいし、

 どうしてもそうしなければならない。

 何故ならわたし自身がどのような運命の悪戯からか

 六六六の数字を背負い込んで生まれてきた

 世にも奇妙な人間であるからだ。


 だがわたしはこの数字のもつ深く美しい神秘を信じたい。

 わたしはキリストであろうとするのではない。

 わたしはキリストなどではないのだから

 それを僭称するならば

 単なる有り触れた偽キリストか

 誇大妄想狂にしかなりえない。


 わたしが欲するのは偽アンチクリストたらんとすることだ。

 それはアンチクリストのシミュラークルを創造することによって、

 あの恐ろしいアポカリプスを

 美しく綺麗な愛と魔法の物語にメールヒェン化することだ。


 それはアンチクリストの形而上学を解体構築することに他ならない。

 アポカリプスの意味の変容、

 それを通して六六六の重苦しい謎の預言のとばりを払うこと、

 それは恐らく不可能ではないはずだ。


  *  *  *


 ところで『黙示録』のヨハネと『福音書』のヨハネについて

 「それは同じ人間ではない。同じ人間ではありえない」

 というロレンスの言葉に対し、ドゥルーズは言っている。

 

 

 

 にもかかわらずしかし、この二人は、おそらく二人が同じ一人であった場合より以上に緊密に結びついている。二人のキリストも、二人が同じ一人であった場合より以上に緊密に結びついている、《同じメダルの両面のように》。

 



 愛の宗教と憎悪の宗教は、
 それにも拘わらず表裏一体の宗教「キリスト教」である。

 そのようにいうとき、ドゥルーズは

 ロレンスに異を唱えているのではなくその真意を汲んで語っている。


 それは憎悪の宗教である『黙示録』を

 愛の宗教である『福音書』によって救済しようとしているのではない。


 むしろ全くその逆である。

 それは結局どちらも緊密に結びついた憎悪のシステムとしての「キリスト教」なのだ。


 無論、ロレンスもドゥルーズも

 「キリスト教」が悪いということを言っているのではない。

 それは宗教批判なのではなく、黙示録批判なのでもない。

 彼らが問題にしているのは

 ファシズムやスターリニズムや

 現代の高度管理社会のような抑圧的な権力機構が

 どのような心理を媒介にして生まれてくるのかを

 『黙示録』をモデルにして語っているのである。


 この論点は目新しいものではない。

 ドゥルーズがロレンスと共に同論文に引き合いに出している、

 そしてこの両者が深く傾倒している

 現代アンチクリスト教の開祖ニーチェに先立って、

 その更に偉大な先駆者であったドストエフスキーが

 もっと複雑で奥の深い仕方でやり抜いたことであるに過ぎない。


  *  *  *


 ところで、ドストエフスキーは現代思想史上最も重要な思想家である。

 彼はニーチェとフロイトに大きな影響を与えたが、

 この二人は彼に比べれば遥かに小物であり、不肖の弟子であるに過ぎない。


 彼に比肩するのはその同時代人のマルクスである。

 ドストエフスキーは興味深いことに

 マルクスがロンドンに亡命している最中にイギリスに旅行している。

 二人が会ったという伝記的証拠はまるでないが

 それを仮定して一つの尤もらしい小説が書かれたとしても不思議はない。


 それはあの『罪と罰』執筆直前のことである。


 六六六の暗号をそのイニシャルにもつ男ラスコーリニコフは

 創作ノート段階においてワーシリーという名前であった。

 それはギリシア風にいうならバシレイデス、

 グノーシス主義の大思想家の名前を彷彿とさせるものである。


 だがそれだけではない。


 それは『罪と罰』において

 予審判事ポルフィーリーの姿に身を窶して登場する

 新プラトン主義の大思想家ポルフィリオスの本名である。


 だがポルフィリオスの本名であるといっても

 それはシリア語から翻訳された本名である。


 ところで通常、固有名は翻訳されないというが、この場合はそれには当たらない。

 そしてこの固有名の翻訳という異常事態こそ

 黙示録的問題を扱おうとするときには、常に逆に重要な意味をもってくるのである。

 それは名前のセリーの問題、神名の問題に絡んでくるからだ。


 さて、ポルフィリオスの本来の名前はマルコスである。

 それはマルクスというのと同じである。

 ワーシリー=バイレイデス=マルコス=マルクス、

 それは「王」ないし「王者」を意味する語なのである。


 ラスコーリニコフとポルフィリオスの本名は共にマルクスに翻訳される。


 黙示録によれば六六六の獣は二人で一対である。

 ラスコーリニコフがΡΡΡのイニシャルのなかに裏返された

 (まるで裏を読めといわんばかりに)六六六の暗号を秘めた人物であり、

 一人のアンチクリストを意味する人物であることは有名である。


 しかし一見彼に対立し彼を逮捕する役回りにある

 ポルフィーリー予審判事もまた、いま一人のアンチクリストなのだ。


 ポルフィーリーは『罪と罰』を謎解きする場合に

 見落とすべからざる真の陰の黒幕であり、意味深長な曲者である。


 ポルフィーリーの中には少なくとも三人の思想家の影を識別することができる。

 最初の一人はポルフィリオス。

 次の一人はヘーゲル。

 次の一人はマルクスの朋友エンゲルス。


 マルクス=エンゲルス。それは二人で一人の六六六の獣の名である。

 エンゲルスの名前はエンジェルつまり天使を意味する。

 天使は本来のヘブライ語でマレク。

 それは「王」を意味するメレクや

 「王国」を意味するマルクト(或いはマルクス)と同系語である。


 マルクス=エンゲルスというのは

 二人の王者を意味するようにも

 天使の王国を意味するようにもとれる言葉である。


 予審判事ポルフィーリーは、ちょうどフロイトが『夢判断』でいっているような集合人物である(勿論それは彼に限らず『罪と罰』の他の人物にも同じことがいえる)。


 そしてポルフィーリーの場合、

 彼は最初に現れるときにはポルフィリオス、

 次に現れるときにはヘーゲル、

 最後に現れるときにはエンゲルスという風に

 その三位一体の三つのペルソナ(仮面)をくるくると切り替える。


 しかしそれは時代順に段階を追って変化して行く。

 恐らくこれはドストエフスキーなりの仕方での史的唯物論の模倣であり、

 弁証法的に展開する歴史の論理を暗示的なプロットに組み込もうとしているのだ。


 このポルフィーリーは

 まさしく地から上ってきた獣として

 海から上ってきた獣に当たるラスコーリニコフに仕える従者として描かれている。


 それは作家ドストエフスキーのマルクスへのオマージュに他ならない。


 ドストエフスキーはマルクスをロジオン(英雄)と呼び、

 偉大なるアンチクリストの革命家として賛美している。


 ドストエフスキーはマルクスに

 神の殺害者・黙示録の獣六六六・アンチクリストの姿を見い出し、

 それを実は非常に好意的に期待をもって描いているのである。


 彼は帝政ロシアにおける覆面した反体制作家に他ならなかった。

 それは『罪と罰』から『カラマーゾフの兄弟』に至るまで

 一貫しているとみるべきである。


 そこにあるのは不屈の反権力精神であり、

 無能な神と憎むべき皇帝に対する徹底的な批判の意志である。


 無能な神のことを彼は「白痴」「悪霊」と呼び、

 世界を駄目にする諸悪の根源であると考えていた。

 そして『罪と罰』において

 その否定的な神の役回りをするのがスヴィドリガイロフである。


 彼は断じてポルフィーリーとラスコーリニコフのサイド、

 つまり偉大なるアンチクリストのサイドの人物ではない。


 間違ってはならない。退廃しているのは〈神〉なのである。

 

 

【関連書籍】

★著者: ファニー ドゥルーズ, ジル ドゥルーズ, 鈴木 雅大
タイトル: 情動の思考―ロレンス『アポカリプス』を読む
★著者: D.H.ロレンス, 福田 恆存
タイトル: 現代人は愛しうるか―黙示録論