わたしの考える「非他者」は、単なる「他ならぬもの」(否定の否定、他者の否定または他者の他者)ではない。
 単なる「他ならぬ」が意味しているのは、むしろ「別人」であり、これに対して「非他者」はむしろ「他のようではありえない」(他者の不可能性)である。それは二重否定的=自己止揚的同一性ではないし、否定的(他者の否定)でもないし不定的(他者の他者へのたらい回し、永遠の堂々巡り)でもない。

 「非他者」というのはその背後に「不同者」をも表裏一体に従わせている何かだ。それは「他のようではありえない」と同時に「同じでもありえない」何かである。だからそれは、差異性にも同一性にも還元不可能な不可能性としてある。

 だがこの不可能性は積極的でポジティヴな意味をもっている。肯定よりも肯定的な肯定性であるといっていい、偉大で美しい不可能者、わたしたちの誰もがそれによって生きているのに、誰もが見失ってしまっているもの。

 「非他者」というのはまさしく「神」だ。「神」はいる。そして「神」こそがいるのだが、それが消されてしまっている。

 「虚無からの創造」(奇蹟)が本当の意味で起きる場所、それが真の意味での「非他者」である。

 したがって、「別人」という悪魔性から、その闇を打ち破るようにして、超悪魔としての神である「非他者」が出来する主体の主体性の様相変換=位相転換論が語られねばならない。

 この様相変換論を、わたしはアポスターズ(背教の定位)と呼ぶ。