恐怖の大王を引きずり降ろせ!
 残酷な神の支配に訣別し、
 諸悪の根源にケリをつけるために、
 黙示録の獣666の名において、
 形而上学的最終戦争ハルマゲドンの宣戦を布告する。

 恐怖の大王(〔仏〕 un grand Roy d'effrayeur,
  Nostradamus “Centuries" 1555&1568 X-72)
 と端的に私がいうのは、
 有難迷惑的存在論(例えば火星人=マルチン・ハイデガー)の
 存在(ぞんざい〔夏目漱石〕)な語調に規定された
 《存在=恩/ON》のことである。
 
 有難迷惑性とは、
 存在困難昏迷矛盾性
 (〈有=存在〉+〈難=困難〉+〈迷=昏迷〉+〈惑=矛盾〉性)
 のことである。

 残酷な神の支配
 (〔英〕 Cruel control of God,
 1992. Hagio Motto from W.B.Yeats)
 と端的に私がいうのは、
 出来損ない的倫理学(例えば救世主=エマニュエル・レヴィナス)の
 自他端(じたばた)した語調に規定された
 《恥=端/END(boarder-line)》の意識
 (瑣末主義 trivialism&部族主義 tribalism/部=分(PART)主義)
 のことである。

 出来損ない性とは自己出来損傷性という意味である。

 諸悪の根源
 (〔独〕 RadiKal-Böse 根源悪 Kant 》Die Religion innerhalb der Grenzen der blossen Vernunft《 1793)と端的に私がいうのは、
 みにくい教えの審美学
 (例えば精神分析の無気味な砂男=ジクムント・フロイト)の
 勿体振った語調(CANT)に規定された文化のみにくさ・
 悪寒(チル/CHILL)のことである。

 私の言う〈みにくさ〉は
 通常普通に言われる〈醜さ〉とは異なる概念である。

 〈みにくいもの〉という言葉を
 私はほぼ〈見難いもの〉〈よく見えないもの〉
 という意味において使っている。

 それは殆ど不可視性とか盲目性(blindness)というに近い概念だが、
 その根本的な意味はむしろ催眠術にこそある。
 それはギュゲスの指輪(透明な虚偽意識)の問題であるといってもよいし、
 〈甘え〉の問題であるといってもよい。


 存在な語調であれ、自他端した語調であれ、
 それは勿体振った語調の二様態(飴と鞭)であるに過ぎない。

 私が勿体といっているのは〈勿れ体〉という
 極めて淫靡に作用する否定以前の畏怖にみちた否定性のことである。

 それは畏まった態度の問題と言い換えてもよい。
 「畏まる」とは「恐れ多い」に通じるが、
 それ以上に「かしこぶる」こと、
 賢者を気取ること、
 そして「かしこ」という「彼岸」的なトポスに定位しようとする
 少しばかりいやらしい卑怯な態度にも通じてゆくものである。

 〈勿れ体〉は〈いけない〉ということである。
 それは〈行けない〉ということに通じる。

 〈行けない〉は〈出来ない〉とは違う。
 人は〈行けない〉ことをすることはあるが、
 〈出来ない〉ことをすることはない。

 出来ても〈行けない〉からしないのである。
 そして〈行けない〉から出来ることも出来なくなる。