埴谷雄高は「私は私であることは不快である」という〈自同律の不快〉の命題から、不可能体・不可能的人間存在である〈虚体〉の概念を演繹する。
 〈虚体〉は〈超人〉の観念と恐らく同じである。
 それは「私は私ではありえない」という命題によって表現されるものだろう。
 これは「私は私ではない」(否定性)と同じではない。
 彼が〈自同律の不快〉と〈虚体〉の観念を託した『死霊』の主人公・三輪与志は「自殺はただに自殺であるに過ぎない」として自己否定(自殺)と〈虚体〉の観念をきっぱりと区別しているからである。
 不可能体は矛盾自体であるかもしれないが、否定体ではない。
 「ありえない」(不可能性)と「ない」(否定性・非在)は意味が違うからである。

 埴谷雄高に先立って〈自同律の不快〉の思想を九鬼周造が確かにもっていたことは余り指摘されていない。
 九鬼の偶然性の様相形而上学は確かに表面的には西欧の必然性の形而上学に対する反発に発しているように見える。
 しかし、彼が「必然性」の名において告発し牙を剥いているのはむしろ同一性・存在・自己・一者を真理とする価値観、つまり〈自同律〉に対してなのである。九鬼はこう言っている。

 偶然性の核心的意味は「甲は甲である」という同一律の必然性を否定する甲と乙との邂逅である。我々は偶然性を定義して「独立なる二元性の邂逅」ということが出来るであろう。(『偶然性の問題』)

 九鬼の〈必然性への反感〉は〈自同律の不快〉乃至〈存在の不快〉を動機とするものに他ならない。

 しかし、私は九鬼と違って、必然性を同一性の様相であるとは考えない。
 むしろそのように考えることこそ不用意に同一性を必然化してしまうことなのである。
 アリストテレスの基本的な表現法では必然性は〈他のようではありえない〉という仕方で実は他を含んでいる。必然性は同一性というよりは非他性である。
 つまりまさに必然性こそが一者と他者の二元的な邂逅の様相なのである。
 しかもそれは同一性に決して内面化することのできないような他者との邂逅(分裂)の様相である。
 同一性は必然性に突き放されることによって生じる。
 しかしそれは同一性が必然的であるということではない。
 必然的なものとは同一性(自己)ではなく、他者である。





著者: 大峯 顕, 大橋 良介, 長谷 正当, 上田 閑照, 坂部 恵
タイトル: 九鬼周造『偶然性の問題・文芸論』