鏡のなかに、わたしを掻き消し、濛々と白く、幽かに沸騰し、いちめんに濃霧する、あの溢れ来る闇を見たのは、とおい昔のこと。

 憶い出す。真夏の深夜、そこはバスルームというより、古ぼけた浴室の洗面台だ。わたしはまだ小さかった。背伸びしなければ、顔が映らない程高い処に、その鏡面はいつもひっそりと粲いていた気がする。 
 寝苦しい晩だったことを覚えている。それで汗ばんで顔を拭き、涼しく顔を浄いたかったのだろう。それはそうなのだけれど、だが、それはひとつの分かりやすい口実でしかない。そこにはもっと言いにくく謎めいたものがまだ蟠っている。

 その浴室については、瓶覗〔ホリゾンブルー〕と東雲色〔ドーンピンク〕の、あちこち剥がれたタイル貼りだったことと、漠然としたその造りまでしかもう辿れない。夢よりも遠く朧ろげな記憶の手触りに、わたしは戸惑ってしまう。
 そこには、もはや決して甦らない空虚な部屋がある。永久にわたしから切り離された、背後でかたく閉じこもってしまう矩形の、何処にもない抽象的な箱が。
 敢えてもそれ以上のリアリティをわたしはあの浴室に与えることができない。もう、それ以上間近には切り迫れない、一個の、いつも後退し消え失せつつある部屋がそこにある。記憶というより忘却の底に痼っているそれが、見るというより響いてくる。響いて、呼んでいる。空ろで荒涼とした、もう訪れることのない、晦い、晦過ぎる、その消え失せた部屋の、空掻く手触りだけが、寂しくわたしに名残っているのだ。

 ただそれだけだ。

 だが、ただそれだけと言い済ましてしまえるもののなかに、そんなことさらにあっさりした別れを拒んで、気にかかる、なおわたしに執拗に縋りつく痼りがある。
 これは、いったい何だろう?
 電気はそのとき点けていたのだろうか――わたしは闇を怖がるたちだったから、ライトなしに深夜の鏡というような恐ろしい淵に向き合い、その、遠いようですぐ近くにある底を覗きこむ勇気なんかなかったはずだ。それなのに、思い出されるその場処は重苦しくびっしょりと青溟〔あおぐら〕い。

 青溟い夜のなかにあらわれるひっそりした硝子の、真夏なのに冷んやり凍りついた泉水なんかに、わたしは一体何の用があって出掛けたのだろう。それはきっと他ならぬ自分じしんのことなのに、胸中不可解な、何だか底恐ろしい子供が――まるでこっそり摩り替わるように――いたような気がして、わたしはその子を見るに耐えない。

 それは子供にありがちな怖いものみたさだったのかもしれない。おそらく、ワクワクと何か恐ろしいものに奪われることを期待して、そんな心こそ底恐ろしいというべきなのに、その心を映し出し、覗き込むために、夜の魔法の鏡に出掛けてゆく不思議な子供がいたのだ。
 その子がどんな呪文を唱えたのかは知らない。けれど、鏡に期待通りのものを召喚〔よびだ〕してしまい、それこそ本当に戦慄すべきものを見出してしまったその子は、あのとき、スッと溶けいる雪片のように、黒光る水面に消え去ってしまい、それを見おろすようにして、新たに、たかく大人の顔をしたこの、今ここで彼の話を物語っているこのわたしが生まれたのだ。溺れた子供を呑みほした淵のうわべに、揺れる、蒼い月のように、非常な遠くから、何もせずに見殺しにした自分の顔を映し出しているこのわたしが。恐怖に凍りついた顔を、混乱し、まだ揺れる黒い水のおもてに、ひらひらと虚しく漂わせているのだ。あのときから、ずっと。

 わたしはもう、その子ではなかったのだ。

 その子供は死んだのだ、溺れ死んでしまったのだ、あの晩に。

 わたしの目を劇しく撃ちすえ、立ちすくませた白い闇の幻。そこに、子供の悲鳴が呑みこまれ、瞬く間に塗りつぶされてしまった鏡のうわべの、白夜の沈黙。わたしはまるで盲人のようだった。さっきまでわたしだったものが、形跡〔あとかた〕もなく消え失せてしまった次元の、その吸取紙のような表面に、消え失せたものの青昏い血痕のようにして、みにくい染みが浮かんできていた。
 それがわたしだった。

 わたしの、まるで別人のようにみえる、突き放すような異貌があった。一瞬、すべてを掻き消したかにみえる闇を更に掻き消し、鏡の鎧戸を閉ざし凍らせ、その何処からともなく決定的に抜き取られて、わたしの前に突きつけられる堅氷の鍵のような顔だった。
 そして、あのとき以来、鏡はわたしに心を閉ざし、そのツルツルする表面の何処にも、顔を差し込むことのできる小さな鍵穴は、もう二度と見つからなくなった。

 そうして、きっと、今にいたるまで、十六年以上もの空ろな時が流れ去った。思い出すまで、そんなに長くかかったのだ。わたしは、そのことをずっと忘れていた。否、そもそものはじめから、わたしは忘れ去っていたのに違いない。

 そもそものはじめから……。

 例えば、こんな風に説明して切り抜けるやり方がある。

 そのときは弱い子供だったから、空白の鏡という幻がつきつける恐ろしい意味には耐えられなかった。だから、抑圧し、忘れることで、わたしは自分を守ったのだ。

 自我の防衛機制という、この利いた風な嘘。

 もっともらしく先を続けよう――そして、今、わたしは大人になり、それに耐える自我の強さを持ったから、それを思い出したのだ。
 するとつまり鏡の中に闇く粲いていたあのブランクというのは、わたしの自我の弱さを意味していたという訳だ。
 そのブランクは今、強められた自我にしっかりと埋められ、もはや存在しない。わたしは克服したから、今、その話ができ、意識化することができたのだ、と。

 何とよく回る口だろう。こんな口をわたしは誰から借りたのか。

 薄気味の悪い口だ。

 それはいつもわたしの側にフワフワ浮いていて、借り受けたような出来過ぎた言葉を実に器用に語る。わたしはその口を通して語ることがある。頻繁にその口が、わたしに先立って喋り始めている。

 その声色はことさらに澄み切っていて、高く、心地好い響きを作り、とても聡明に人々の間をするすると言い抜けてゆく。

 そこには、一人の優しい青年がいつもいる。口の後ろに付き添うようにして。
 それがわたしだ。
 
 魔力を持った不思議な、妖精のように軽やかで、人をうっとりさせるわたしの、少し女性的な赤く厚やかな唇がそこにある。キラキラと立ち騒ぐ、鈴かな、抑制の効いた、物分りのよい公平無私なその声が、影のない、クリスタルガラスで出来たみたいに明晰で完成された語を完成された話し方で話す。
 黙っていなければならないときには大人しく黙って、蝶の翅のように美しく繊細な左右を合わせ、わたしの顔の上にふわりと止まっている。説得力のある、全能の蝶。その翅からは、一抹の鱗粉もこぼれないほどに、身の禦し方を心得きっている。

 〈彼〉は大人だ。

 でも、〈わたし〉は苦しいのだ。

 堰を切って開き、迸ろうとするわたしの口。肉唇から、ゆらり舞い上がる一羽の朱い蝶、剥離する、もうひとつの、唇の星幽体〔アストラルボディ〕。宙に浮く、誰かの――誰かに似ている、おぼろげな顔立ちが、その唇の背後に零れおちる。

 うすやかな象〔かたち〕へと白く透き通りながら、見えかけつつ崩れてゆく影薄い貌〔かお〕の上に咲く、ひとひらの薄緋い脣の花。わたしに微笑みを投げかけ、柔らかに触れ返しながら、すこし後退りして、優しげにふるえている、ひとつの幻の崩れゆく顔がある、そこに。

 そこに、零れるがままに、気流のように崩壊し、揮発してゆく顔の影。

 空気へと瞠られては、そのまま朧ろに崩れる瞳とも、半ば開かれ、自らの脆く朱い肉質の頽〔くず〕れのなかへと呑みこまれてゆく上下〔うえした〕の脣ともつかぬものの、かすかな、畏れのような戦慄〔わなな〕きが、すぐそこにいる。何処かしら、わたしに接吻けを求める風情の、弱く促し、佇み、待ち受けている誘惑者の、物言いたげな顔に似ている。

 その顔が消えてゆく。

 わたしは、呼び止めたい。顔が、消えてしまう。迸る、わたしの、思い切った、白く擦〔かす〕れ呻〔すた〕めく息の問い、わたしは言う。

 ――あなたは、誰?

 おまえは誰なのだ。迸った強い吐息が、脆い顔の幻を打ち消してしまう。再び、白く目を撃つ闇の濃霧が広がる一瞬、間を縫って、眼前に透き通った空虚〔ヴォイド〕のなかに、もはや顔の無い、薄笑いするだけの朱脣だけが残存し、滞空している。

 気味が悪い。

 チェシャ猫の、何処かに雲隠れするその顔の後ろにしばらく留まり、その薄ら笑いをゆっくりと展ばしながら空中に融けこんで、うっすら到る処にひろがってゆく脣。
 その視えない脣が何処からともなくわたしに言う、擦り寄るように。
 ぞっとする。
 
 脣が言う――わたしはわたしだ。

 いつも、そう言うのだ。決して《わたしはおまえだ》とは言わない。言ってもよさそうなものなのに。
 またか。
 わたしは不機嫌に口ごもる口のなかで不平を鳴らす。
 「ふん、そんなこと、わかってるよ」
 わたしはわたしだ。聞こえよがしな、聞き飽きはてた同語反復〔トートロジー〕。わたしをいつも不愉快にさせる、心得、悟り済ました口調の透き通った声。
 決して《わたしはおまえだ》とは言わない。
 わたしはわたしだ。それは、実に完璧な不在証明〔アリバイ〕だ。

 でも、それは嘘なのだ。

[続き]

【挿画】Charli Shiebert My Little Arsonist