[承前]

 

 Immanuel Can't Stop Murder.

 

 神の子イマヌエルは殺人を止められない。イマヌエルは《汝殺すなかれ》と叫ぶことができるだけに過ぎない。その叫びは殺人者の斧によって割り裂かれる。


 《汝殺すなかれ》という掟の言葉は、決して人命を尊しとするものではない。それは《汝》と呼びかけられる者に《人殺し》の可能性を実は書き込んでいる。《人殺し》としての《汝》自らを知れと命じている。それは禁止のかたちで実は殺人を示嗾している。禁止命令は禁止=命令である。もし知識の果実が禁断の果実として指定されていなかったら人はそれを決して食べなかったことだろう。それは毒であるという警告に神の善意をみようとするスピノザの解釈はこの観点からするととても下らない。むしろ神は禁断の果実を食わせたかったのである。

 同様にカインにアベルを殺させたのも神である。神はそれによって殺人を創造したのだ。アベルを殺すようにカインに唆したのは神である。カインはアベルを殺すことによって特権的な保護の徴を与えられている。最初の殺人者カインは最初の選民である。

 ヘルマン・ヘッセは一九一九年に匿名で出版した小説『デミアン』のなかでこの点に着目して非凡人カインによる凡人アベルの支配というラスコーリニコフ張りの理論によってカインの徴の積極的解釈を行っている。『デミアン』は出版当時にも一世を風靡し、第一次大戦後のドイツの青年達の心を虜にしたが、一九六〇年代のアメリカの反体制的な学生やヒッピーのバイブルにもなった。ちょうど第一次大戦後のドイツがナチスを生み出したように、アメリカのフラワームーヴメントはチャールズ・マンソンの悪魔的カルトによる黙示録的で猟奇的な殺人事件を生み出し全米を震憾させた。社会は一転して陰惨で偏狭で欺瞞的な保守主義に転じてゆく。

 そのような過程では必ず幼稚で教訓的で迷信的で道徳的な恐怖映画や怪奇小説やオカルトが不安に怯えた小市民的で偽善的な価値観の上に流行して大衆の痴呆化に貢献するものである。ご多分に漏れず、666の獣の徴をもつ悪魔の少年を主人公にした愚劣な『オーメン』という映画が作られたが、この邪悪な悪魔の少年の名前はダミアン(=デミアン)であった。

 そうやって悪魔の幻影に怯えた人々は感傷的で保守的なキリスト教道徳に飼い慣らされた操作しやすい仔羊となって却って権力という本当の悪魔に魂を売ることになる。怯えた仔羊どもは悪魔の子を将来きっと碌なものにならないと決めてかかり、まだ何もしないうちから予言に躍らされて狩りたてその芽をつぶそうと猛烈なイジメにかかる。しかし彼らは気づいていない。集団ヒステリーを起こした仔羊こそ悪魔よりも遥かに凶暴でその上遥かに穢れた悪霊に憑依かれた豚よりも悪いレギオンになっているということを。更にまさにそんなことをするからその悪魔の子とやらは本物の悪魔になりたくなくともならずには済まされなくなってしまうのだということを。

 仔羊どもこそ悪魔を創るのである。これは虚構の作品『オーメン』のなかですら真実である。

 まだ小さい内からあんな恐ろしい目にばかり会わされていたのでは誰だって悪魔になってしまう。

 ダミアン少年が自分が悪魔の子であることを知ってショックを受けてひとりぼっちで泣くシーンがあるのだが、あのシーンにだけは深い感動と真実がある。

 彼には愛が必要なのだ。愛されさえすれば彼は悪魔などにはならないで済むのだ。

 しかしそれは与えられない。そうであれば悪魔となって世界を滅ぼすことこそ正義である。

 

 わたしは人間として悪魔に同情するし、ダミアンには決してインチキな仔羊どものインチキな神の子なんかに負けて欲しくない。そんな奴らの創る天国など寒々としているだけである。

 逆に人間のために血の通った暖かい世界を創造できるのは悔しさも怒りも悲しみも寂しさも辛さも知り抜いたダミアンのような人間だけだ。

 

 寧ろ彼のように幼くして辛酸をなめ尽くした強く誇り高い人間の方こそがキリストに似ている。

 それに、新約聖書に書いてあることを信じるなら、イエスはヘロデ王とってまさにダミアンのような悪魔の子に他ならなかった。

 

 ヘロデ王は予言に脅えて多くの罪もない赤ん坊を殺させたそうだが、イエスはその殺された多くの子供達の生き残りであり、彼らの怒りを背負って立ち上がってきた人間だ。

 そしてイエスは実際に偽メシア・反逆者として処刑されたのである。

 

 従ってわたしは断言するが、もし新しいキリストが出現するとすれば、彼は必ず『オーメン』のダミアンのように地獄からやってきて、人間を神とその天国から救済しようとする悪魔の子であって、地上から人間であることをやめた野蛮な仔羊どもを一掃し、地獄がどんなに素晴らしく美しいところであるかを説いて去るに違いない。その悪魔の子は野蛮で反動的で愚かな仔羊によって殺されるだろうが、そのとき天の神に天罰が下り、誰が本当の神であるかがはっきりするだろう。

 

 人間は仔羊がどんなに醜く嫌な奴らであるかを知ることになるだろう。