形而外学(Apophisics)とは形而上学(Metaphisics)の異名である。
 それは形而上学を別の仕方で構想しようとするものである。

 Apophisicsとは一つの思想=実験(Gedanken Experiment)である。

【実験の概念】
思想=実験とは実験的思考を意味する。
それが〈実験〉Experimentと呼ばれているのは、科学的実験という意味においてではない。
実験的態度とは、経験主義的態度や科学者にありがちな専門家的態度、
即ち経験論的(empirical)なもの、
及び、エキスパート(expert)なもの(小器用な玄人性)を
撃破するべくして提出される態度である。

前衛芸術の分野において、実験的とは
前衛的かつ革命的という意味合いを強く帯びて用いられる言葉である。
〈実験映像〉などの場合がそれであって、
この場合、実験的とは既成の固定観念を破壊し、
経験的なものを転覆し、異なった経験の分野を開披するという、
revolutionalな態度を意味している。
この用法はカントの『純粋理性批判』に由来する。

コペルニクス転回、いやむしろコペルニクス的革命と呼ぶべきものにこそ
〈実験的〉という言葉の支点は置かれて用いられている。

革命とは視点を変えて見ることを意味する。
それは経験様式それ自体を変化せしめることである。
思想=実験とは思考を革命せしめることであって、
それまでされなかったような角度から問題提起すること、
動いている歯車を止め、止まっている歯車を動かし、
定説に反し、それまでの方法に背反して、
世界を裏返し、異なる光学で見ることを意味する。

認識論とはむしろ光学である。

物事に違った前提から光を当てることで、
決まり切ったものの見方を破壊し、精神と思考の自由を解き放つことである。

Apophisicsが実験であるとは、
それが前衛的思想を創造的かつ革命的に作り出そうとするからである。

【革命と反動的時間】
革命的態度とは保守的態度に対する反動的=反抗的態度から出発する。
爾り、革命とは反動的なものである。
それは常に進歩主義的である保守主義に対して時代遅れであろうとする。
時代遅れというこのアナクロニックな遅延はしかし、
それこそがプログレッシヴでアグレッシヴな若々しい運動である。
革命のこの逆説的反動性は自らの内に逆回りの時計を作り出すことによって、
それまでの進歩を反動たらしめ、新しいものを古いものとする。
しかし誤解してならないのは、革命が作り出す新しさとは、
進歩主義者の基準でいう新-旧の方向性そのものを
批判的に爆破することを通して作り出されるのだということである。

【回転と秩序】革命とは究極的には時間との闘争の問題である。
自ら時間の支配者たろうとすることである。
時間とは或る価値観・或る基準・或る枠組・或る範型に立脚する
軸(axis)を中心にして、天・地・人を
ひとつの制御された回転方向に向かって回転させるものである。
一定の方向=意味に向けて回転させることは秩序づけるということである。
問題はこの軸を握るものは誰かということであり、何かということである。
そこには必ず支配者がおり、己れの時代を他に押し付けて、
その人生をそして運命を支配している。
支配されている側は自由では有り得ない。
そこで問題なのは、この被支配性が幸福なものであるのかどうかということである。
もしそれが耐え難いものであるならば、そのような支配者は廃棄するべきである。
そのような宇宙は破壊されるべきである。
われわれには己れの住むべき宇宙を選択し、
軸を己れの望む方向に回転させ、
違う生き方を可能にするために革命を企てる当然の権利がある。
誰も不快な世界に我慢して生きていなければならぬという法はないのである。
 
【経験論と帝国論】
経験論(empiricism)は第一に空虚主義(emptysm)
第二に帝国主義(imperialsm)に結び付く。
空虚な経験の帝国のEmpire State Buildingを形成するものである。

経験論の哲学は、産業革命的=産業資本主義的な
或る種の政治的=文化的=歴史的なイデオロギーである。
このEmpty-Dumptyが
大英帝国(the Empire)発祥のものであることを見失うべきではない。

経験論(empiricism)は〈経験頼みな信用すべからざる薮医者的療法〉という
通俗的ニュアンスを辞書的に黙示されている。

だが一層重要なのは、
エンピリシズムは本当に〈経験論〉と訳されるべきかどうかを疑うことである。
何がempiricalなものであったかが問題である。
つまり経験論者を自称した人々にとって
自明の前提として観察されていたのかが問題である。

観察されていたものとはむしろ〈大英帝国〉である。
それはグレート・ブリテン島というような地理的概念ではない。
それはその小さな島を越えて広がる
目撃不能なものとしてのBritish Empireの観念である。

〈empiricism〉は経験論というよりはイギリス経験論であり、
イギリスを、大英帝国を経験する思想である。

それは単なる認識論上の
(つまり非政治的なという意味で無垢な)立場として
ナイーブに〈経験論〉と呼ぶよりは〈大英帝国主義〉と呼ぶべき思想である。

【王国と帝国の美学的差異】
Kingdom(王国)は目撃されるもの、事件(出来事)である。
しかし、Empire(絶対君主制の大英帝国)は観察されるもの、
ある種の仮説=小前提(assumption)である。

王権は神授されるものである。
それは戴冠式によって目撃される。
即位は王者を誕生させ、王者は王国を流出する。
これがKingdomの形成論である。
王国は天から降ってくる。それは指名の問題である。

絶対君主制は前提を常に観察する。
そして、王位は継承されることによって正当化される。
これが一方の側面である。
他方では、国家の存在が大前提されている。
国家があるが故に王が選ばれねばならない。
そこで王の選定に関しての正当な手続きが問題とならねばならない。
王は論証されねばならない。

【黙示録と辞書の背教論】
常に或る語を字引から抽出するとき、
その項目への参照=典拠(reference)を外して周囲を見回し、
再考=認識(recoginize)しなければならないのは、
近接しているものが何かということである。

このproximityへの配視はハイデガー式なものではなく、
むしろ、よりきびしく背視的=背教的行為として遂行されなければならない。

審判(レフリー)が公正であるとは限らない。

〈辞書〉Dictionaryというものは
常に既に本質的な意味において黙示録的Apocalypticなものである。
黙示録的なものは、正典的なものよりも一層、
外典的なもの且つ俗語的なものに傾斜して己れを獲得せんとするものである。