ヘーゲルは『小論理学』一四七節で必然性を可能性と現実性の綜合であるといっている。この場合の可能性は実在的可能性を意味する。ヘーゲルは現実性から出発して可能性を規定してゆく。現実性は内的現実性と外的現実性に分類される。内的現実性が可能性で内的現実性が偶然性である。可能性は潜在的現実性であり偶然性は外的事実性である。ヘーゲルは現実性を活動的現実性と捉えている。つまりアリストテレスのいう現勢態(エネルゲイア)である。これに対し可能性は潜勢態(デュナミス)を意味する。

 ところで、このことと関連して、ヘーゲルは、理想と現実は違うという乱暴な論法を振り回して直接的な所与の現実を盲目的に礼賛し、理想を実現しようとする者に頭ごなしにそんなことは非現実的で不可能だと決めつける類いの横暴頑固な卑俗な現実主義者を非難している。

 理想と現実を単純で媒介不能な対立関係に置き、各々一方を振りかざして相手を一方的に非難攻撃する水掛け論の光景は現在でもよく見られるものだ。理想を振りかざす者はそれを実現するための現実的諸条件を顧慮しない――この類いの連中は独断論者或いは独断的観念論者である。

 他方で理想と現実の違いという莫迦の一つ覚えだけを繰り返して頑迷に所与の現実の不動性に固執し人の言うことに全く耳を貸さず、理想家を嫌らしく嘲り笑うだけの類いの別の種類の無自覚な独断論者もいる。
 この類いの人間は現実を振りかざして、理想であれば何でも実現不可能な空想であると片付けることにのみ忙しい。彼らは現実をそれ自体固定化した神性不可侵な理念にしてしまっている。要するに保守的で反動的で抑圧的な一番嫌らしい退廃した人間、現実という語を隠れ蓑にした堕落した理想主義者であり、悪や絶望を理想視している人間である。

 彼らは現実主義者を自称する。しかし決して現実主義者の名に相応しい人間ではない。むしろ最も空想的で最も非現実的な人間、自分にも他人にも嘘をつく堕落しきった死すべき毒虫のような人間である。

 世界が醜悪で否定的であるという現実的な現実を、そのような場処にあっては人は生きてはゆけないのだという一番厳しい現実を、現実は変革しなければならないものだという現実をこの類いの現実主義者が一番知覚していない。
 目の前の人が死にかけているのに、それを助けようともせず「これが現実だ、よく分かったか」という非道で無価値な説教をしかなそうとしない人間は、己れが現実的に悪党であるという一番見なければならない耐え難い現実を認識していない。

 変革が現実的に不可能であるのは、それを不可能だと称する人間がそれを妨害しているからである。
 彼らが崇めている現実はそのために多くの者が犠牲にされるような血塗れのものである。
 その血を啜って生きていることを善しとするような現実主義者こそ最も抽象的な人間、心臓に杭を打って殺されるべき吸血鬼であるに過ぎない。

 彼らは現実の否定面の身をもっての辛い認識(時としてそれは死である)を他者に押し付け、自分はその現実のおいしいところだけを都合よく頂戴しているのに過ぎない。
 たまたま有利な立場に立って他者を抑圧し、自分だけは痛い目を見ることを免れているのに過ぎない。
 要するに自分が権力に庇護されていることを喜び、その権力に媚びているだけの話なのだ。

 だが真の現実とは何か。或いは真の意味での必然性とは何か。それはこのような人間は必ず殺されねばならないということである。生かしておいては碌なことにならないということである。死ななくてもよい人が死んだ方がいいような者のために殺され続けているということである。その悪循環を解決しなければならないということである。

 真に現実的な必然性とは、現状肯定の怠惰な必然性ではなくて、まさに現実をより良きものに変えねばならぬという必要性のことである。

 人は己れの現実的経験を通して現実の法則性を学ぶ。謙虚であるかぎりにおいて経験論の精神は常に健全なものである。しかし、老いて硬直化しもはや経験から学ぶことをやめ、己れが経験から学んだことを絶対視して、現実を制約する法則的原理に止揚し、現実主義者を自称して己れの豊かな経験をそれによって現実を現実的に貧困化することに役立て始めたとき、経験論は最悪の独断論に、現実主義は最低の空想的抽象的な観念論に、懐疑主義は非常に不毛な虚無主義にすりかわってしまう。

 それは最も恐ろしい思考の倒錯である。理想なき現実主義は現実から理想の実現不可能のみを学び、また現実を理想の実現不可能としてしか学ばなかった幻滅した理想主義であるに過ぎない。これは最悪の野蛮である。実はこのとき理想も現実も共に把握され損なっている。