『存在と時間』第一編第四章第二五節において、
ハイデガーはこの現存在の誰性に
各自性(Je-meinigkeit)を通して取り敢えず答えを与える。
さまざまな他相を通じて自同的なものとしての、
〈基体〉(das Subjectum)=〈自己〉(das Selbst)。
だが寧ろ、Dabeisein、すなわち、そのすぐそばに居合わせている存在、
現存在に近接している、離れずにいる、その他に猶あるところの何者か、
いわば、近傍存在(être-voisin またはむしろ être à deux pas d'ici)
こそが問われねばならないのではないのか。
そして勿論ハイデガーはこの居合わせる存在にも目を配っていはいる。
しかし、配っているのにすぎない。
わたしが être à deux pas d'iciと名付けながら
言わんとしているような意味でのDabeisein(そばにいるもの)への問いとは
それはどこか違っている。
さて、quidditéは、もともとquidditas、
スコラ哲学の通性原理を意味する語である。
通性原理とは個性原理haecceitas
(此性thisness/〈これ〉ということ/個別性/
ラテン語のhaec〈これは/この〉に由来する)
に対立する語で、
同一種類の多なる個物に通ずる
普遍性の面から見られた場合の本質を意味する。
ドゥンス・スコトゥスは、
完成された現実性たる個体、つまりエンテレケイアとしての個体は、
普遍的本質たる通性原理が個性原理によって
収縮限定されることによって実現するものと考えている。
普遍者あるいは無限者の有限者への収縮的受胎と考えれば、
これはカバラなどにおけるエン・ソーフのツィムツームの思想にも通じる。
他方、個性原理haecceitasは、
普遍的なものを個々の特殊な本質または現実存在たらしめるものである。
同一類に属する個々の存在を個別化する原理を意味する。
トマス・アクィナスは個別化の原理を〈質料〉に求めたが、
ドゥンス・スコトゥスは
この個別化の原理haecceitas(これはスコトゥスの用語である)を
〈形相〉と考えていることが特徴的である。
またドゥンス・スコトゥスの神は〈無限者〉であり、
それは特に〈意志〉の〈悟性(知性)〉への優位を、
そしてすなわち、認識に対する倫理や実践の優位を
強調するものだったことを考え併せると彼の存在は無視し得ない。
それはまさにレヴィナスを思い出させるものである。
* * *
さて、レヴィナスは『実存から実存者へ』において、
主体の定位の問題を〈ここ〉への局所化として考察している。
局所化は基体=主語の場処において成立する。
それは〈ある〉(il y a=être)の非人称的意識を中断し、
懸架または宙づりにすること、
一種の懸濁(suspension)である眠りによって可能となる。
つまり〈être〉の繋辞的=連辞的、〈繋連=痙攣〉的力を切断し、
去勢することによって己れを主語的な位置に落ち着かせるのである。
それは主語の主語化であり、
自同律の命題〈わたしはわたしである〉を
中断符(suspension/points de suspensif[…])によって
中断するということなのである。
イリヤのもたらす戦慄つまりスリルを
サスペンス、つまり、はらはらする場面においてかわすということ。
(ところで興味深いことに
教会用語において〈suspense〉には〈聖職停止〉という意味がある。)
それは古典的な意味での実体概念、
主語と述語の間の同一性(自同律A=A)を拒むことである。
* * *
述語的にあるところの己れ自身(soi-même)から逃れ得る
という可能性についてレヴィナスは語っている。
すなわちそれは、述語を放棄する能力、
〈俺は……〉と言い出しかけて、〈俺だ〉と言わない、
或いは、言い終えることの出来ない不可能性そのものを
能力化することである。
つまり、まさしく埴谷雄高のいう〈自同律の不快〉をこそ
レヴィナスは〈主体の主体化〉の必須条件
(それなくしてはありえないそれ hou aneu)として認めているのである。
しかもそれを〈存在の革命〉として語ってさえいる。
さて、語の本来の意味において、〈革命〉つまりrevolutionとは、
〈転回すること〉を意味している。
それは内部へと見向くこととしてのエピストロフィ(epistrophe)である。
埴谷雄高の〈自同律の不快〉や〈存在の不快〉は
正確にレヴィナスの語る〈存在の悪〉と同じ言葉である。
〈存在の悪〉の〈悪〉は、原語のフランス語では〈mal〉である。
これは倫理的な意味での〈悪〉を意味するよりは、
寧ろ〈不快〉、気分の悪さという感性的が語感が強いし、
レヴィナスもまた〈悪〉というよりも〈不快〉の情態性において
強調して語っている。
(強調しすぎてそれは〈恐怖〉にまで発展している。)
レヴィナスのイポスターズ論において、
〈わたし〉は〈もはやわれならざるわれ〉として成就している。
つまりいわばレヴィナスのいう実存者=主体は、
既にして、埴谷雄高の言っているあの〈虚体〉の創造の成就なのである。
ここにおいてもレヴィナスは埴谷雄高の正しさの証明であり、
その完全な解明である。
むしろそのことこそが論じられねばならないのである。
存在ではなくて不可能性こそが必然的なのだ。
ハイデガーはこの現存在の誰性に
各自性(Je-meinigkeit)を通して取り敢えず答えを与える。
さまざまな他相を通じて自同的なものとしての、
〈基体〉(das Subjectum)=〈自己〉(das Selbst)。
だが寧ろ、Dabeisein、すなわち、そのすぐそばに居合わせている存在、
現存在に近接している、離れずにいる、その他に猶あるところの何者か、
いわば、近傍存在(être-voisin またはむしろ être à deux pas d'ici)
こそが問われねばならないのではないのか。
そして勿論ハイデガーはこの居合わせる存在にも目を配っていはいる。
しかし、配っているのにすぎない。
わたしが être à deux pas d'iciと名付けながら
言わんとしているような意味でのDabeisein(そばにいるもの)への問いとは
それはどこか違っている。
さて、quidditéは、もともとquidditas、
スコラ哲学の通性原理を意味する語である。
通性原理とは個性原理haecceitas
(此性thisness/〈これ〉ということ/個別性/
ラテン語のhaec〈これは/この〉に由来する)
に対立する語で、
同一種類の多なる個物に通ずる
普遍性の面から見られた場合の本質を意味する。
ドゥンス・スコトゥスは、
完成された現実性たる個体、つまりエンテレケイアとしての個体は、
普遍的本質たる通性原理が個性原理によって
収縮限定されることによって実現するものと考えている。
普遍者あるいは無限者の有限者への収縮的受胎と考えれば、
これはカバラなどにおけるエン・ソーフのツィムツームの思想にも通じる。
他方、個性原理haecceitasは、
普遍的なものを個々の特殊な本質または現実存在たらしめるものである。
同一類に属する個々の存在を個別化する原理を意味する。
トマス・アクィナスは個別化の原理を〈質料〉に求めたが、
ドゥンス・スコトゥスは
この個別化の原理haecceitas(これはスコトゥスの用語である)を
〈形相〉と考えていることが特徴的である。
またドゥンス・スコトゥスの神は〈無限者〉であり、
それは特に〈意志〉の〈悟性(知性)〉への優位を、
そしてすなわち、認識に対する倫理や実践の優位を
強調するものだったことを考え併せると彼の存在は無視し得ない。
それはまさにレヴィナスを思い出させるものである。
* * *
さて、レヴィナスは『実存から実存者へ』において、
主体の定位の問題を〈ここ〉への局所化として考察している。
局所化は基体=主語の場処において成立する。
それは〈ある〉(il y a=être)の非人称的意識を中断し、
懸架または宙づりにすること、
一種の懸濁(suspension)である眠りによって可能となる。
つまり〈être〉の繋辞的=連辞的、〈繋連=痙攣〉的力を切断し、
去勢することによって己れを主語的な位置に落ち着かせるのである。
それは主語の主語化であり、
自同律の命題〈わたしはわたしである〉を
中断符(suspension/points de suspensif[…])によって
中断するということなのである。
イリヤのもたらす戦慄つまりスリルを
サスペンス、つまり、はらはらする場面においてかわすということ。
(ところで興味深いことに
教会用語において〈suspense〉には〈聖職停止〉という意味がある。)
それは古典的な意味での実体概念、
主語と述語の間の同一性(自同律A=A)を拒むことである。
* * *
述語的にあるところの己れ自身(soi-même)から逃れ得る
という可能性についてレヴィナスは語っている。
すなわちそれは、述語を放棄する能力、
〈俺は……〉と言い出しかけて、〈俺だ〉と言わない、
或いは、言い終えることの出来ない不可能性そのものを
能力化することである。
つまり、まさしく埴谷雄高のいう〈自同律の不快〉をこそ
レヴィナスは〈主体の主体化〉の必須条件
(それなくしてはありえないそれ hou aneu)として認めているのである。
しかもそれを〈存在の革命〉として語ってさえいる。
さて、語の本来の意味において、〈革命〉つまりrevolutionとは、
〈転回すること〉を意味している。
それは内部へと見向くこととしてのエピストロフィ(epistrophe)である。
埴谷雄高の〈自同律の不快〉や〈存在の不快〉は
正確にレヴィナスの語る〈存在の悪〉と同じ言葉である。
〈存在の悪〉の〈悪〉は、原語のフランス語では〈mal〉である。
これは倫理的な意味での〈悪〉を意味するよりは、
寧ろ〈不快〉、気分の悪さという感性的が語感が強いし、
レヴィナスもまた〈悪〉というよりも〈不快〉の情態性において
強調して語っている。
(強調しすぎてそれは〈恐怖〉にまで発展している。)
レヴィナスのイポスターズ論において、
〈わたし〉は〈もはやわれならざるわれ〉として成就している。
つまりいわばレヴィナスのいう実存者=主体は、
既にして、埴谷雄高の言っているあの〈虚体〉の創造の成就なのである。
ここにおいてもレヴィナスは埴谷雄高の正しさの証明であり、
その完全な解明である。
むしろそのことこそが論じられねばならないのである。
存在ではなくて不可能性こそが必然的なのだ。