缶コーヒーを、よく買うんだ。うん、ホットコーヒー。手のひらからさ、じんわりと温かさが伝わってくるような、ホットなやつね。
僕の手のひらの中には缶コーヒーがあって、僕はそれに触れてる。熱がスチール缶を伝播して僕の手のひらを温める。スチール缶が温まるから、それを触っている僕の手のひらも温めてるんだけどさ。
でも、僕の感じ方は違う。頭に浮かぶのは、熱の波動とスチール缶を媒介としたその伝播ではなく、温かいコーヒーそのものなんだ。焦げ茶色の濃いコーヒーね。
たぷたぷと揺れながら、僕の手のひらを直接温めてくれているような感覚がさ、僕を温めてくれるんだ。
それが僕をほんの少しだけ穏やかな気持ちにさせる。
だから僕は好んで、自動販売機かなんかで缶コーヒーを選んで、よく飲む。
恋人と公園のベンチに座りながら、缶コーヒーを時間をかけて飲んだりする。
または、友人と池の畔を散策しながら、缶コーヒーを片手に会話に弾みをつけたりする。
あるいは、独りでいる時なんかにも、少しだけ残して灰皿代わりにする。
タバコの灰が、温かみのあるコーヒーの中に沈んで、溶けて消えてゆく姿に思いを馳せたりもする。
缶コーヒーの温かさは、優しさとか愛しさとかと繋がるんだ。
缶コーヒーの優しさや愛しさは、人を裏切らない。人は人を裏切る。相手はそんなつもりは毛頭ないのかもしれないけど、去っていかれた本人にはそう感じることもある。
優しさとか愛しさってさ、それとは逆の冷酷さや憎しみなんかの裏返しで、冷たくされた事や憎しみを経験してればしてるほど、その分だけ、優しさや愛しさの有り難みや大切さを感じるんじゃないかって思うんだ。
ーー(ここで、ゲホッゲホッと、彼は咳き込んで血痰を吐く)ーー
・・・失礼。うん。右手でタバコを吹かし、左手に缶コーヒーを持っているときが多いよ。
まるで、右手に過去に対する恨みや懺悔をもちながら、左手からはその慈悲を与えられているみたいにね。
今まで、とても多くの缶コーヒーを飲んできた。
今まで、とても多くのタバコを呑んできた。
それでも、とてもじゃないが足りない。もっともっと必要。これからも僕は過去への感情とその慈悲を必要とするだろうね。
でもね、最近思うんだ。
冷酷な過去や憎むべき過去は僕が生きている以上どんどん膨れていき、それへの慈悲の機会はますます減っていく。
それに、もう人が助けてくれたり、泥沼から精一杯救い出してくれるような時代は過ぎ去ったんじゃないかって。
だからあと少し、あと少しだけ生きるのだから、この少しの間、膨れる過去に対して、あらがう術を身につけなきゃいけない。生きなきゃいけないのに、生きる屍のように生きるわけにはいかないからね。いくら、あと少しだって言ってもさ。
その術が、僕独りが作り出すイメージなんじゃないかって思ってるって事さ。
そのイメージも、いやイメージを投影する対象は、物がいいよ。
もう人にはあんまり期待しない。人から期待したものを得られなかった時のモヤモヤをさ、もう上手く消化できないんだ。それに人は、とても強く僕の過去にその痕跡を遺すしさ。
あと少しだからさ。あと少し、あと少し。あと少しだけ生きればいいんだからさ…。