深夜にこんにちは。

ホリエモンロケットの行く末を伊邪那岐(イザナギ)は如何にして見つめるのか。

とりあえず、おじさんの理性は今宇宙と一つになっているビッグバンアタック。

 

どうも。東北の汚い花火こと伊藤マサミです。

なめるな!結構綺麗に咲くわ!最上川の上空とかで!!!

 

さて、最近はローステの編集と例のあれの脚本で令和のスタートを駆け抜ける日々です。

 

何か行動を始めると、そこに必ず『目指すところ』があって…

 

例えば編集であれば、最終的には「最高のDVDを作る」とか

執筆なら、読むだけで何かを得られるような脚本とか

 

行動には必ず、最終的に『目指すところ』があって、「ゴール」がある。

 

ただし、『目指すところ』と「ゴール」は必ずしもイコールではない。

簡単に言えば「挫折」だったり、「半永久的な停滞」であったり

こういうことでも結局ゴールはゴールなのだ。

 

ただ、先の長い行動に対し、ゴールが果てしなく霞んで見える時は

回り道してみるのもきっといいだろう。

ただし、回り道を見つけたらすぐに入ること。

悩んでいる時間が一番もったいないし、時間という一番価値のあるものを毎分毎秒失っていくからだ。

 

そして、回り道をしたならば、そこが中継ポイントでいい。つまり、「小さいゴール」だ。

 

WSとかで長台詞のコツを教えるとき

 

「小さいゴール」をたくさん作りなさい。

 

と、言うことがある。

 

そういうことだ。

 

始まりがあれば終わり、つまり「ゴール」が必ずある。

だからこそ、そのゴールまでに、出来るだけ余計なことをしようということなのだ。

 

「スタート」~「ゴール」

 

この「~」の部分にどれだけの「分岐」と「可能性」があったかで、その濃密度が変わってくる。

 

同時に、「目指すところ」が多ければ多いほど、きっとその「分岐」が鼠算式に増えていき、また新しい可能性を作り出す。

ただ、忘れちゃいけないのが、これが「ゴールの為の回り道」だと、常に実感することなのだ。

それがなければ、結局はただ時間を浪費しているのと同じで、あまり意味がない。

 

今道が逸れた。ならば、まっすぐ行ってたら見れなかった景色を、一生焼き付けよう。

そう思って回り道をすれば必ず何かを得られる。

そうして得たものは必ず財産になる。

 

人間にとって景色は財産である。

 

明日も、いい景色を焼きつけられますように。パン食べたい。