易術家のノウゼンです。こんばんは。
今年も はや夏至ですよ。
頂点と感じるところが終わりのサインです。
日時計で太陽の影を測って撮影しようとしましたが、あいにく梅雨の曇天です。昔の人の気象観測は大変だったでしょうね。
黄経90度が夏至、180度が秋分、270度が冬至、0度が春分。24節気は天象のルールでもあり、人生のルールでもあります。素直に天と地を観察し、古代人は占術と人倫の土台を作りました。
私の好きな碁打ちに往年の高川格名人がいます。
平明流と称して、奇を衒った様な棋風を嫌いました。
この人の教則本の冒頭に良いことが書いてあります。
これ数年前にもご紹介したのですが、いま現在でも有用と思いますので、いま一度引用します。道を極めた達人の言葉は、どんなジャンルでも応用可です。
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「ずいぶん勉強はしているつもりだが、ちっとも上達しない。どうも自分は才能がないのではないか?」
こんなことを仰る方が沢山あるが、これは無意味な自省です。
〝才能の有無を心配するのは専門棋士の問題であって、みなさんの碁の上達には特別な才能など必要としません″
冒頭の言葉の意味は、覚えたことがちっとも身につかない、という意味でしょうが、これは才能の問題ではなく、勉強法が間違っているからです。
すなわち、自分の実力ではとても使いこなせないような、いまの自分に必要のない知識をいっぱい頭に詰め込もうとすること、これが間違いの元なのです。
「頭の中では何とか理解出来ても、実戦に応用できないような事は、いくら覚えても役に立たない」
いっぺんで「なるほど」と合点できる知識を一つ一つ積み重ねて行くべきです。これが上達の最短コースです。要はいまの自分に縁のある勉強の反復こそが、本当に自分に必要なやるべきことです。
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少し長い引用になりましたが、多くの方の現場でのヒントになると思います。さすが一芸を極めた名人だけのことはありますね。私ごときが失礼ですけど‥
何のことであれ、ある方面で生きて行きたいなら、現実の実践者であるべきです。評論家は詰まらない。
もっと上達したら舞台に出ようというのは、巧妙なウソつきが使う言い訳です。
人はどんな格好悪くとも、現有戦力で戦うしかありません。
何故なら、その格好悪さはこれまでの自分の選択が自ら運んできた境涯だからです。全部自分のせい。
目の前にある課題を「ちゃっちい」と思うのは、事実そのものではなく、バイアスのかかった表現と決めつけです。本当の俺は「水戸黄門」!‥ですか?
比較、という気持ちの裏にあるのは、自己逃避と欺瞞の自己弁護です。努力が嫌いなだけです。
ここに‥気がついたら、もう自分が何者か気づいている筈です。何をすべきで何をすべきでないのか。
私が考える「坎」(かん)とはこのようなものです。
今生の自分の固有の役目に本当に気がつけば、人生早いも遅いもないです。
確実にそこからリアルな一歩が始まるからです。
「自分の季節のど真ん中を行け」
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