検察闇


《アメリカは素晴らしい! 》

《真の自由と民主主義の国》

《検事と判事は国民に選ばれる。最高裁判事は入れ替えがない。任期終身! 死ぬまで!》《実現・達成するには、憲法改正必要》

《検察の腐蝕! ロッキード事件などを Webから》【続く】
1【続き】《ロッキード事件捜査布陣など関係者考察》

 更新日/2016.7.23日

 (れんだいこのショートメッセージ) 

 

 「時の法務省、検察庁、裁判所の捜査布陣考」サイトをなぜ設けるのか。

 それは、ロッキード事件に見せた司法の政治的立ち回りが【続く】


2【続き】

 その後の司法の歪みを決定せしめた直接の契機となったと思うからである。

 その意味で、この時立ち働いた役者の振る舞いとその後の立身出世ぶりを徹底解析する必要がある。

 れんだいこはそう思う。 2005.3.7日 れんだいこ拝 【続く】


3【続き】

 【時の検察庁人脈

  ロッキード事件発動時の検察庁の人脈構成は次の通りであった。

 上層部は、

検事総長・布施健、

同次長・高橋正八、

同刑事部長・佐藤忠雄、

同担当検事・江幡修三(後の検事総長)、

田村の各氏で、

【続く】


4【続き】

検事総長・

布施健

-神谷尚男・東京高検検事長

-高瀬礼二・検事正が指揮した。

 

 法務相は

稲葉修。

 現場を指揮したのは最高検検事・

伊藤栄樹(後の検事総長)で、東京地検特捜部副本部長・

吉永祐介が責任者となり、

【続く】


5【続き】

東京高検の検事長・

神谷尚男(々検事総長)、同次席・

滝川幹雄(々大阪高検検事長)、同検事・

片倉、

野村幸雄の各氏が、また直属の東京地検では、検事正・

高瀬礼二(々東京高検検事長)、

【続く】


6【続き】同次席・

豊島英次郎(々名古屋高検検事長)の各氏が任務に就いた。

 ちなみに、

布施の後、

伊藤、

吉永が検事総長を歴任する。 

(私論.私見)

 伊藤、吉永の検事総長歴 

 「なりふり構わぬロッキード事件摘発」が、

【続く】


7【続き】

その任務を積極的に推進した者をして論功行賞的意味を持って出世階段を昇らせたたことが判明する。

 

 即ち、

伊藤、

吉永は立身出世の為に

 

「検察の正義」

 

を売った輩であり、美談で評すること勿れということになる。

 

【続く】
8【続き】 2006.6.18日 れんだいこ拝


【時の東京地検特捜部の検事メンバー】 

1976 (昭和51). 2.5日時点の東京地検特捜部の検事は、以下のメンバーであった。 

捜査統括  

川島 興/特捜部長(後に大阪高検検事長)

【続く】


9【続き】

主任検事  

吉永祐介/副部長(後に検事総長)、 

藤本一孝 (後に新潟地検検事正)→ 

石黒久*(あき)/副部長(後に名古屋地検検事正)
特捜部検事   

河上和雄(々最高検公判部長)、

【続く】


10【続き】

村田恒(々名古屋高検検事長)、

松尾邦弘()、

松田昇(々最高検刑事部長、預金保険機構理事長[)、

小木曽国隆(々埼玉地検検事正)、

山部力()、安保憲次()、

東条伸一郎(々大阪高検検事長)、

【続く】
11【続き】

小林幹男(々仙台地検検事正)、

佐藤勲平(々福岡地検検事正、公正取引委員)、

浜邦久(々東京高検検事長)、

友野弘(々宇都宮地検検事正)、

神宮寿雄(々昭和58年東京地検検事辞職)、

【続く】
12【続き】

宮崎礼壹(々内閣法制局長官)、

太田幸夫(々東京高裁部総括判事)、

広島速登、

村田紀元、

近藤太郎、

寺田輝泰、

水流正彦、

清水正男、

荒木久雄。


事務官 

田山太一郎、

水野光昭


特捜部資料課長

【続く】
13【続き】   

田山市太郎


副検事   

前田勇、

宇都宮正忠、 

岡崎芳高、

寺島留八


 このうち

荒木久雄、

太田幸夫の

2氏は

裁判所からの出向となっている。

 後に花形検事として脚光を浴びた

 

堀田力はこの中にいない。

 

【続く】
14【続き】

 

 堀田力が特捜部検事として参加するのは

同年4月1日付時点からである。

 自ら志願した。

 後に法務省官房長。 

2.24日、ロッキード事件捜査本部が設置された。

本部長/

高瀬禮二東京地検検事正、

 

【続く】
15【続き】

 

副本部長/

豊島英次郎次席検事、

捜査統括/

川島興特捜部長

、特捜副部長/

吉永祐介主任検事という布陣となった。

 

 (私論.私見)

 

 堀田の投入考 

 堀田は、明らかに特命任務を帯びて投入されたことが判明する。

 

【続く】