こんにちは。
法蔵菩薩の四十八願中
25番目の願について思い浮かぶことを
呟いてみようと思います。
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第二十五願 説一切智願
設我得佛・國中菩薩・不能演説・一切智者・不取正覺
たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、一切智を演説することあたはずは、正覚を取とらじ。
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「国中の菩薩」というのは浄土におられる菩薩です。
「説」は読んで字の如く説くですね。
「演」は水と寅の組み合わせです。
水は「長く延びる」というイメージです。
寅は十二支の第三位です。
十二支は植物の生長段階を象徴化しています。十二支の
第一位は植物の発生の段階の象徴、これが「子」 です。
第二位は発生後まだ柔軟性を保つ段階、これが「丑」です。
そして第三位は枝葉を伸ばす段階、これが「寅」です。
「長く延びる」というイメージによって象徴的にその段階を表しています。
寅の図形は「矢+𦥑(両手)」となっていて
これは矢をまっすぐ伸ばす情景を設定した図形です。
この意匠によって「長く延びる」
というイメージを表すことができます。
したがって「演」は
水がずるずると長く延びて流れる情景を暗示させています。
物事を長く引き延ばす。とか
話や仕種を段々と引き延ばして展開させる
という意味に展開していきます。
なので「演説」するというのは
「一切智」を段々と長く引き延ばして展開しながら
説きます、ってこと
なのでしょう。
「一切智」については
下記の資料を添付します。
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コトバンク
〘名〙 仏語。あらゆる現象を完全に知る智慧。広義では仏の智慧である、一切種智と同じとし、狭義では三智の一つとして、仏の智、菩薩の智に対する声聞縁覚の智とする。
※愚管抄(1220)七「事の詮には、人の一切智具足して」 〔添品法華経‐譬喩品〕
新纂浄土宗大辞典
一切の物事について完全に知る智慧。仏の智慧。仏智。原語はⓈsarvajñaⓈsarvajñatā。薩婆若さはにゃと音写される。仏は一切智を具えるものとして一切智者、全智者といわれる。声聞・縁覚の一切智と仏の一切智を区別して、仏の一切智を一切智智という。仏に特有の一〇種の智力である十力は、仏が一切智者であることを示す。『俱舎論』破我品では、仏は気持ちを発動するだけで望むままに何ごとも知る能力が具わっていると示される。また仏陀が全智者であることは、インド仏教論理学において他学派からの批判に答える形で、法称や寂護によって活発に議論された。天台宗の別教では一切智・道種智・一切種智の三智を順次に証得すると説き、円教では三智を同時に一心に証得する一心三智を説く。
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菩薩さんは仏様に成る一歩手前の
方ですが、その条件として
まず他人様を仏様にせにゃならない。
(というと今だと他人様の命を奪うの?
なんて捉えられかねませんかねぇ。
ある意味「命」の意味の捉え方で
そーとも言えないこともないけど、
そういう時はメタ的表現であって、
まさか本当に生身の命なんて勘違いする
人はいませんよね。)
そのために、仏様の智慧とは如何なる
ものかを是非聞いて頂きたい、
そんな願いが成就する場所をつくりたいという
法蔵菩薩の願いでしょう。