スティーブは在日36年のアメリカ人、妻は日本人の菊江である。最近、菊江の父母が終活の一環でお墓を購入、「自分たちが亡くなったら墓に来て菩提を弔って欲しい、また、あなたたちが亡くなったらこのお墓で私達と共に共に安いで欲しい、」と言う。スティーブはこの話に違和感を感じる。というのもスティーブが育ったカリフォルニアでは散骨が普通だからだ。彼の祖母が亡くなった時、灰となった彼女の骨は彼女にとって最も思い出深い、意味深い土地に撒かれた。スティーブもまた同じ様に何処かに散骨してもらいたいと思っている。妻の菊江もスティーブと同じような考えだ。というのも子供達が成長して独り立ちした時、彼らがどこに住まいするか分からないというのが今日の時代状況でもあるからだ。近年、日本においては納骨堂に納骨するとかいう人が増えているという。
さて、僕もまた同じような(お墓を守ってくれる人がいない)現実のただ中の1人ではある。個人的には、お墓とは自分が亡くなって後、残された方がそれぞれ考えていくものではないかと思う。無論、今生きている人には自分が亡くなって後、残された人にこうとむらって欲しいというそれぞれのイメージはあるだろう。そしてそれは実際の法律の上でもとても尊重されている。しかし、死んでしまえばその人には何の手足、口出しも出来ないのだ。全ては残された人に託すほかあるまい。残された人、つまり今の我々がどうするか、あるいは我々が死んだ後の子供達がどうするか、という話である。
親に対して、この世に生まれさせて頂いた御恩を報ずる気持ち、恋慕の情があるとするなら、親が死んで後もその姿を見、その声を聞きたいという思いが起こるはずであろう。それが例えばお墓という亡くなっていった方々との出会いの場所なのではないだろうか?ただし、そこでは、あの世から現れ出てくる声を聞き姿を見るのではない。霊魂がどうのこうのという話では無く、自分の心に刻まれた想いと出逢うのである。そういう意味ではその場所はあの石で出来た墓というものでなくてはならないという事ではない。ではないけれど、具体的な場所というのはつくっておくほうが良いと思う。そしてそこに訪れる時期も定めておいた方が良い。そうでなければ、人の心はうつろいやすい。放っておいたら大事なご縁をいただいた御恩を報ずる事などすっかり忘れさってしまうことだろう。その点、先人は有り難いことに何年かごとの法事とか毎年のお盆の墓参りという行動規範を作ってくださりあれこれ考えずとも自然に故人とふれあえるようにしてくださったのである。
今は幸いなことに個人の自由というものが謳歌できる時代である。しかしそれによって、墓参りとか法事とかが古き因習として僕達から自由を奪うものという感覚、そういうことは必要無いという雰囲気が強くなっている時代になっているかもしれない。一人一人がそれで平穏な心持で過ごせるのなら何の問題もないだろうが、故人にご縁のあった人々が多く集まり次に続く人々に想いを馳せていく時と場所を喪失していくというのは何か物悲しく思われる。