極楽の荘厳(2)― 極楽に生まれた者の生活
また舎利弗、かの仏国土には、常に天の楽を作す。黄金を地とす。昼夜六時に、天の曼陀羅華を雨る。その国の衆生、常に清旦をもって、おのおの衣?をもって、もろもろの妙華を盛れて、他方の十万億の仏を供養したてまつる。すなわち食時をもって、本国に還り到りて、飯食し経行す。舎利弗、極楽国土には、かくのごときの功徳荘厳を成就せり。
「また舎利弗よ、阿弥陀仏の極楽国土は、常に天の音楽が響いています。黄金を大地としていて、昼も夜も常に、 天から曼陀羅華が降っています。その国の衆生は、いつも夜明けになると、それぞれが器に妙華を盛って、他方の十万億の仏を供養します。そして一食ほどの短い間で本の国、すなわち極楽国土に還りて、飯食し経行します。 舎利弗よ、極楽国土にはこのような功徳荘厳が成就しているのです」。
前回から丶極楽世界のすがたを釈尊がお説きになる部分を読んでいます。今回も舎利弟に対して、阿弥陀仏の国がどのような世界であるかを教えておられる部分です。天の音楽が響いて、大地は黄金で、天から華が降ってくる。何とも優雅な雰囲気です。ただ、これは実体的に考えてはならないと思います。私たちの日常を超えた阿弥陀仏の世界を示して、私たちを阿弥陀仏の国に導くための教えです。つまり、あえてわかりやすい形をとった「荘厳」なのです。
「荘巌」は一般には「そうごん」と読まれ「おごそかなこと」「重々しいこと」を意味します。もとは仏教の言葉で「しょうごん」と読みます。「美しく飾る」という意味です。ただ、飾るといっても、七夕の飾りつけやクリスマスツリーのイルミネーションなどとは違います。もともと形を超えたものを、あえて形で表しているのです。例えぱ、私たちも感謝の気持ちを表す場合には、お礼の言葉を述べたり、品物をお送りしたりします。気持ちは形にしないと相手には伝わりません。阿弥陀仏が極楽世界を荘厳するのは、一人ももらさずに救いたいという願いを表しているのです。願いが形を取ることにより、私たちに働きかけてくるのです。それが「功徳」、すぐれたはたらきと言われます。
前回は極楽世界がすべて宝物であることが説かれていました。今回の部分は、極楽に生まれた者の生活が端的に表されています。天から曼陀羅華(美しい華)が降ってくるのは、他方の 十万億の仏に供養するためです。降ってきた華を仏にお供えするのです。
「供養」とは、敬う心から起こる行為です。敬う気持ちから食べ物や飲み物、花などを差し上げることになるのです。たとえば、釈尊の教えに感動した給孤独長者が、祇園精舎を提供したことを前にお話ししましたがこれも供養の一つです。感動や敬いの心が供養の根っこなのですここでは、阿弥陀仏の国に生まれた者は、十万億という数多くの仏を供養すると説かれます。
私たちの日常の世界は、自分の都合の良いものを追い求め、都合の悪いものを取り除くことが中心になっています。自分の考えを中心にすれぱ、どうしても好きな人と嫌いな人が出てきます。味方や敵として決めつけることにもなります。阿弥陀仏に出遇う時、そんな決めつけや思い込みから解 放されるのです。すべての存在の尊さが見えてくるのです。それ故に、他方の世界におられる数多くの仏を供養すると言われます。
阿弥陀との出遇いは、阿弥陀だけを敬うのではありません。周りの存在が尊敬すべき仏として見出されることによるのです。しかも「即以食時」と言われるように、どの仏が先で、どの仏が後という優先順位はありません。みな平等に供養することが起こるのです。
供養を終えて極楽に還ったところで「飯食し経行す」とあります。直接には食事をして歩くことを意味しています。しかし、食事と食後の運動というようなことではありません。経の初めに極楽は阿弥陀仏が今現在説法していると説かれていましたが、毎日いつでも法を聞くことができる世界です。その意味で、極楽の生活は阿弥陀仏の説法を聞き、その教えを中心に生きることです。それが阿弥陀仏の世界に生まれた者の上に成り立りことを、釈尊は教えてくださっています。
一楽真 小松教区宗圓寺住職 大谷大学教授