蓮如上人がおっしゃられたことでよく知られている言葉があります。「聖教はよみやぶれ」、その対句として「本尊は掛けやぶれ」と言われる言葉です(『蓮如上人御一代記聞書』真宗聖典八六八頁)。
「聖教はよみやぶれ」、これはわかわかります。みなさんがもっておられる『真宗聖典』も、しじゅう拝読しておればノリがはがれたり、紙が薄くなったりしてボロボロになってきます。それが「聖教はよみやぶれ」ということです。つまり持続的な学習を勧められたのです。これはわかりますね。ところが、「本尊は掛けやぶれ」の意味がわからない。
みなさんのお家にも掛軸があるかと思います。あの掛軸がやぶれるということがありますか。引っ張らないかぎりは破れないですね。だから「本尊は掛けやぶれ」というのは、下げたままの状態にしていることをいうのではないのですね。「自分がお参りする時にだけ、名号を掛けなさい」ということです。本尊の掛軸は下げたままにしない。「お参りが済んだらすぐに巻き上げて、しまっておきなさい」といいことです。そうすると、日に三回ほどお参りしようということで軸を下げる。今日はもう休むという時には巻き上げる。朝になったらまた下げる。このようにやっておれぱすぐに破れてきます。それを連如上人は勧められたのですね、「本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれ」と。
そうすると、我々が考えている仏さまというものと少し違います、ふつう、我々の仏さまは、軸で下げてある場合はお参りする人がいなくても仏さまですね。この場合「仏さまはどう考えても「留守番役」です。床の間の上におって「お留守番です」。
お内仏の場合も同じです。用のない時にはお内仏の巻き戸は閉じておきます。それは何を表すかというと、仏さまという場合にはお参りする人かいないところには考えれないといいことです。自分はそこにいないけれども、仏さまの軸が下がっているということになりますと、これは留守番役の「骨董品」になってしまう。よく名号でも、床の間に下げていらっしゃて、お参りがすむと、「この軸は誰それさんに書いてもらったものでねぇ」と、自慢話がよく出るのです。どれだけ古い木像でも、自慢の種になれぱ、それは仏さまではなく骨董品になります。
そうすると、我々は仏さまと言っておりますけれども、その実、いつの間にか留守番をさせるものにしたり、骨董品にしたり、品物にしているわけです。ひどい場合は、「これ高かったんですよ」と言って、仏さまに値段をつけています。そんなことを我々はついついやってしまうわけですね。そうして仏さまを骨董品にしておきながら、「ああ、ありがとうございます、今日も我が家の者たちをお守りください」とか、「ご先祖さまお願いいたします」となっているのです。「あそこの骨董屋、ずいぶんふっかけたなあ」とか思いながらお参りしているとすれば、我々はいったい本当に何をしているのかという、そういう問題になります。こういうところに、今日、我々に仏さまということがわからなくなっている、ということがあるようであります。
それで蓮如上人は、用のない時には、つまりお参りする本人がいない時にはご本尊は巻き上げておくか、お内仏ですと巻き戸は閉めておくのだ、と。つまりは自分を抜きに、仏さまということはあり得ないんだ、ということをお示しになられたのですね。骨董品なら「自分抜きでも成りたちます。しかし、蓮如上人の教えられたことから言いますと「自分自身がいないところに、仏さまはいないのだということになります。
「本尊の意義をたずねて」(東本願寺出版)より
平野修